JOURNAL

「好き!好き!ストラヴィンスキー」

第1回 芸術家 vs 感染症

文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882─1971)

 現在の新型コロナウイルス禍について、100年前のスペインかぜと比較する記事をよく見かける。第一次世界大戦中の1918年に始まったスペインかぜ(スペインインフルエンザ)は猛威を振るい、全世界で4000万人とも5000万人とも言われる犠牲者を出した。WHOによれば世界人口の25%から30%が感染したという。

 となれば、スペインかぜはヨーロッパの音楽界でも大きな脅威となっていたはず。ストラヴィンスキーも《兵士の物語》初演の直後にスペインかぜに感染している。もともと《兵士の物語》は第一次世界大戦後の経済的苦境から抜け出すために、わずか7人の小編成のアンサンブルで、各地を巡業するために書かれた作品である。お金がないから、少人数で旅の一座のようにあちこちを巡ろう。そんな機動力重視のコンセプトのもと、ローザンヌで初演されたのだが、なんと、初演後にストラヴィンスキー本人と家族、さらには巡業を企画するエージェントまでも感染してしまい、プランは頓挫してしまった。作曲家の言葉を借りれば「長く憂鬱な病気」だった。

《春の祭典》初演時より

 ストラヴィンスキーの人生に登場する感染症はスペインかぜだけではない。

 1913年、パリのシャンゼリゼ劇場におけるバレエ《春の祭典》初演のスキャンダルはよく知られている。あまりにも革新的な《春の祭典》に対して、観客から野次と嘲笑が浴びせられ、罵声や喧嘩の声でダンサーたちは音楽が聞こえなくなってしまうほどだった。名士たちを招いたゲネプロは平穏無事に済んでいたので、ストラヴィンスキーにとって本番の混乱は予想外の事態だった。

 この有名な事件の数日後、ストラヴィンスキーはチフスに罹る。そして6週間にわたって入院することになる。

 《春の祭典》は稀代の興行師ディアギレフ率いるロシア・バレエ団のために書かれた作品である。盟友ディアギレフは、もちろんストラヴィンスキーを見舞った。ほとんど毎日、病院に顔を出した。ただし、感染症に対してほとんど病的な恐怖心を抱いていたディアギレフは、一度として病室内に足を踏み入れなかった。このことでディアギレフは友人たちにずいぶんからかわれたというが、ソーシャル・ディスタンスを先駆的に実践していたとも言える。

稀代の興行師 セルゲイ・ディアギレフ(1872─1929)(左)とニジンスキー他、ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)のメンバーら。ストラヴィンスキーの姿も(後列右から4人目)

 1915年、ストラヴィンスキーはジュネーヴ湖畔のモルジュに家族とともに居を構えた。このとき、ディアギレフはストラヴィンスキーに会うためにスイスを訪れ、わざわざストラヴィンスキー家の近くに家を借りることにした。ところが、ディアギレフが到着してすぐに、今度はストラヴィンスキーの娘が麻疹に罹ってしまう。これで感染を恐れるディアギレフには会えなくなってしまった。ストラヴィンスキーは隔離期間をとった。たっぷり数週間にもわたる隔離を経て、もう絶対に大丈夫だという確信を得てから、ストラヴィンスキーはディアギレフを家に招いた。それでもまだディアギレフは不安そうにしていたという。




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