春祭ジャーナル 2019/03/12
Spark Joy! ときめきのシェーンベルク
第2回 ビヴァリー・ヒルズでテニスに夢中
文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)
アルノルト・シェーンベルクと自画像
© Arnold Schönberg Center, Vienna
前回書いたように、大作《グレの歌》初演で圧倒的な大成功を収めたシェーンベルクは、ひとり苦虫を噛みつぶしたような顔で、事の推移を見守っていた。しょせん《グレの歌》は極彩色で書かれた後期ロマン派スタイルの旧作。音楽の未来は12音技法の領域に広がっている......。
なんと気難しい男だろうか。せっかくみんなが「グレの歌」を大絶賛してくれているのだから、たとえ過去の作品であっても素直に喜べばいいのに。
シェーンベルクは画家としての才能にも恵まれていた(メンデルスゾーンのように)。彼の自画像がいくつか残っているが、これらの絵に描かれた眼差しの強さからは、過剰なまでの理想主義に燃え上がる孤独な信念の人といった人物像が浮かんでくる。今にも苛烈な不協和音が聞こえてきそうな、芸術の闘士といった雰囲気だ。
だが、もしかするとそんな人物像が、必要以上にシェーンベルク作品に対して近づきがたい印象を与えているのかもしれない。
テニスをするシェーンベルク
© Arnold Schönberg Center, Vienna
1934年、シェーンベルクはナチスの台頭するヨーロッパを離れて、アメリカに移住する。彼は南カリフォルニア大学とUCLAで教鞭を執った。
シェーンベルクが落ち着いたのはビヴァリー・ヒルズ。近所には映画スターや著名ミュージシャンたちがたくさん住んでいた。シェーンベルクの住居のすぐそばをツアーバスがやってきて、ガイドが「あちらがシャーリー・テンプルの住まいです」などと案内していたという。
シェーンベルクが親しく付き合っていたのは、あのガーシュウィンだ。自宅にテニスコートを持つガーシュウィンは、近所に越してきたシェーンベルクに対して、いつでも自分たちのテニスコートを使っていいと言ってくれた。リッチなナイスガイである。おかげでシェーンベルクは毎週のように学生たちといっしょにやってきて、テニスに興じることができた。テニス相手にはチャップリンもいたという。テニスコートではじけるシェーンベルク。シェーンベルクのスマッシュ。シェーンベルクのサーブ・アンド・ボレー。西海岸の太陽を浴びて元気いっぱいのシェーンベルク。
すっかりビヴァリー・ヒルズ暮らしに適応したシェーンベルクは、かつてほど気難しい男ではなくなっていたようだ。ある講義では「これからハ長調でいい音楽が書かれる可能性だって大いにありうる」とまで語ったという。
当時シェーンベルクの生徒だった作曲家ディカ・ニューリン(後にパンク・ロッカーになった)によれば、あるときシェーンベルクはとびきりのファッションセンスを披露してくれた。ピーチ色のシャツに、白の水玉模様のグリーンのネクタイ、金色の大きなバックルが付いた鮮やかなパープルのニットベルト、茶色と黒とストライプがたくさん入ったけばけばしいグレーのスーツ。
アメリカ暮らしがこのド派手なセンスを彼に与えたのだろうか。決してそうではないだろう。ビヴァリー・ヒルズにだって、そんな格好をしている人はいなかったはず。この過剰なまでの色彩感覚は、そもそも《グレの歌》で存分に発揮されていたのではなかったか。
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