JOURNAL

「ほとばしるバッハ」

第1回 喧嘩上等

文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685─1750)

 作曲家の印象は有名な肖像画に大きく影響されるものだと思う。

 ヨハン・セバスティアン・バッハといえば、右手に小さな楽譜を手にした肖像がよく知られている。これは1746年にライプツィヒの肖像画家エリアス・ゴットロープ・ハウスマンが描いた真正の肖像画。かつらをかぶっていて、顔つきは厳めしい。上機嫌とはいえない。恰幅がよく、頬や顎も肉付きがよい。当時バッハは61歳なのだから自然なことではあるが、あまり活発そうには見えない。

 しかし、これはあくまで年輪を重ねてからの姿。だいたい人が肖像画を描いてもらうのは、うんと立派になってからの話であって、青春期や壮年期に描いてもらう機会は少ない。実際にはバッハはとても壮健で、マッチョな男だったのではないだろうか。

 バッハの有名なエピソードに、当代一流のオルガニストであったブクステフーデのオルガンを聴くために、アルンシュタットからリューベックまでを徒歩で旅したという話がある。距離にして400kmを超える大旅行である。当時、バッハがどのような経路をたどって旅したのかはわからないが、現代のGoogleマップで経路検索すると、アルンシュタットからリューベックまでは徒歩で約77時間ほど。仮に毎日5時間歩き続けるとしても、片道15日間は必要になる。これはもう健脚などという生易しいものじゃない。鉄人の領域にある。当時20歳。無鉄砲さは若さの特権だ。

アルンシュタットの若きバッハ像
バッハ生誕300年を記念し、1985年に市庁舎前の広場に設置された。バッハが乱闘事件を起こした場所でもある

 リューベックではブクステフーデから「娘と結婚すれば自分の後継者として教会オルガニストの地位を譲る」と提案されたバッハだが、その娘が自分より10歳も年上ということもあってか、これを断り、また400km離れたアルンシュタットへと帰った。「もう歩きたくないから、いっそ結婚しちゃおうかな……」などとは思わなかったのだろうか。

 この年、バッハはもうひとつ事件を起こしている。アルンシュタットの教会オルガニストを務めていたバッハは、ラテン語学校の生徒たちの合唱隊を指導する立場にあった。真剣に音楽に取り組もうとしない生徒たちに対して、バッハは歯に衣着せぬ物言いで接したため、両者の間には険悪なムードが漂っていた。そしてある日、広場で6人の生徒たちと出会った際、乱闘事件が起きる。ファゴット担当のガイアースバッハなる生徒が、なぜオレを侮辱したのかとバッハに詰め寄り、顔をめがけて棒で殴りかかってきた。これに対してバッハは剣を抜いて立ち向かった。ほかの生徒たちが引き留めてくれたおかげで、殺傷沙汰にはならずに済んだが、バッハはそこで宥めたり逃げたりするタイプの人物ではなかったのだ。喧嘩上等のオラオラ系男子だったのではないか。

 ちなみにこの事件の後、バッハは「あいつが処罰されない限り、安心して往来を歩けない」と聖職会議に訴えたが、調査の結果、悪いのは生徒を侮辱したバッハであるという判定が下されている。


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