JOURNAL

「友達はベートーヴェン」

第2回 そのコーヒーを飲ませてくれないか

文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)

 コーヒー好きのベートーヴェンは、いつも一杯につきコーヒー豆60粒をきっちりと数えていたという。この逸話は有名だ。違いのわかる男、ベートーヴェン。コーヒーは濃すぎても薄すぎてもおいしくない。

 ところでこの60粒とは多いのか、少ないのか。コーヒー豆は種類によってずいぶん大きさが異なる。ためしに自分の手元にある3種類のコーヒー豆をメジャースプーンですくって、一杯に何粒の豆が必要か、数えてみた。

 A. パナマ産のカツーラ種 50粒

 B. スマトラ島産のマンデリン 35粒

 C. ブラジル産のブルボン種ピーベリー 68粒

 同じ一杯分でもずいぶん違う。Cはやや特殊な丸豆でかなり小さい。平均的なサイズの豆はAだろう。ベートーヴェンの60粒はかなり多いなと感じる。濃い味が好きだったのか、単にカップが大きかったのか。

 そもそもコーヒーの味は淹れ方によっても違ってくる。さきほどの豆の数は電動ミルで豆を砕き、ペーパードリップで抽出するという前提だ。しかし19世紀初頭のウィーンにペーパードリップはなかったはず。

 そこでヒントになるのが、当時、ベートーヴェンと交流があった人々の記述だ。1812年、ピアノ教師フリードリヒ・シュタルケはベートーヴェン宅を訪れて「非常にうまいコーヒーだけの朝食」を楽しんだ。その際、ベートーヴェンは「ガラス製のコーヒー沸かし」を使っていたという。また、1816年に医師カール・フォン・ブルシーはベートーヴェン宅で「コーヒーを沸かしているガラス製のフラスコ」を目にしている(ともにマルティン・ヒュルリマン著/白水社刊『ベートーヴェン訪問』より)。

 これを目にして、そうか、サイフォンか!と一瞬、膝を打ちたくなるが、サイフォンは1810年代には発明されていない。おそらく、コーヒーをお湯で煮出すようなシンプルな方式だったのではないか。

 しかしベートーヴェンはこれに満足していたわけではない。1822年、ウィーンに滞在したダルムシュタットの音楽家ルイ・シュレッサーは回想記でベートーヴェンを訪問した際の思い出をこう語っている。「コーヒーは最近考案されたコーヒー沸かしで淹れ、しかもその構造を詳しく説明してくれさえした」(前述書より)。

 むむ、これはなんなのだ。詳しく説明するほどの機構を持つコーヒー器具とは? 単にガラス製のフラスコで煮出しているわけではなさそうだ。

 旦部幸博著『コーヒーの科学』(講談社)によれば、「1820~30年代には、ナポレオンによる大陸封鎖が終わって生豆輸入が再開されたヨーロッパでコーヒーブームが巻き起こり、さまざまなコーヒー器具が発明された」。そして「蒸気圧を利用してお湯を上下させる仕組みを初めて取り入れた、モカポットの原型(1819年フランス)や、ダブル風船型のコーヒーサイフォン(1830年代ドイツ)、コーヒープレス(19世紀半ばドイツ)など、現在見られる抽出器具の大半の原型が、この時代に生まれた」という。前述のルイ・シュレッサーの証言が1822年であることを考えると、おそらくは「モカポットの原型」のような器具を使っていたのではないだろうか。熱せられたお湯が管を通って上昇し、コーヒーの粉に落ちる仕組みがこの頃に広まっている。

 次々と革新的な表現を打ち出したベートーヴェンは、新しいもの好きだったにちがいない。音楽家としても、コーヒー愛好家としても。

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