JOURNAL

待望の《トリスタン》
絶対に聴き逃がせない《リング》ガラ

文・舩木篤也(音楽評論)

「今どき」の人ではない

©︎青柳 聡/東京・春・音楽祭2017《神々の黄昏》より

 ドイツの現役指揮者のなかでも、マレク・ヤノフスキは、最も厳しい指揮者ではなかろうか。ありていに言えば、とても怖い。あの対象を射貫くようなまなざしからしてそうだ。筆者も、他人事ながら、震えあがる思いをしたことがある。
 時は2012年3月。所はベルリンのフィルハーモニー大ホール。《トリスタンとイゾルデ》全曲の演奏会形式によるコンサートで、いましも前奏曲を始めようとヤノフスキが指揮台で居ずまいを正していたその時。彼の左上方あたりの客席、ELブロックに、ひとり遅れて転がり込んできた客があった。するとヤノフスキは、その人を――待つのは当然としても――なんと、席に着くまでねめつけたのだ。視線を感じたらしいその女性は、着席すると恐縮至極、指揮台に向かって手を合わせた……。
 けっして威張ったり、相手を威圧したりする人ではない。「ああいいよ、いいよ」という態度を簡単にとらず、つねに慎重なのだ。筆者自身も、これまでインタビューや面会を許されてはきたが、多少とも心を開いてくれたと感じるようになったのは、回を重ねてから。そんなのは当然だろうと思われるかもしれないが、ある世界的ピアニストの弁を借りれば、「今どきの音楽家はナイスガイばかり」。人当たりがよく、聞き分けがよく、つまり気さくで、こだわりがない。でもそれは、強烈な、頑とした主張や個性がない、ということにも繋がりかねない。マレク・ヤノフスキは、そんな「今どき」の正反対なのである。

©︎堀田力丸/東京・春・音楽祭2014《ラインの黄金》より

 そのことは、彼のもとで響く音楽にも、はっきりと表れているだろう。NHK交響楽団との共演においても然りである。
 「東京・春・音楽祭」でN響とともにヤノフスキがワーグナーの音楽劇を演奏会形式で演奏するようになったのは、2014年から。4部作《ニーベルングの指環》の第1作にあたる《ラインの黄金》で始めたのだった。1幕ものの「序夜」であり、4作のうち上演時間が最も短く、また最もスケルツォ的でヤノフスキの持ち味が出やすい作品だったのは幸運だったと言えるかもしれない。というのも、今日ふり返るに、当時はまだ、オーケストラと指揮者の間に、目に見えない壁がうっすらとあったように思うからだ。
 ヤノフスキにあっては、これはワーグナーの場合に限らないが、音が素早く、シャープに立ち上がる。そして強弱やアーティキュレーションが、厳密にコントロールされている。巷間しばしば言われるように「速さ」や「淡白さ」そのものを狙ってのことではない。響きの輪郭を明瞭にし、透明度をなんとしても確保するのが目的だ。
 そしてこの行き方が、N響の体質と、必ずしもすぐに一致しなかったのではないか。それは、この《ラインの黄金》の直後に定期演奏会で共演したブルックナーの第5交響曲でも感じられた。終楽章の終盤など、金管セクションの一部は、いかにもフォルティッシモで吹くのを「我慢」させられている感じで、空中にどこか「?」が漂っている印象。低音弦がくり返す主要主題のリズムは、おかげでくっきりと聴き取ることができたのだけれど。
 ヤノフスキとN響は、それ以前にもよく共演したものだが、今や昔、1980年代のこと。なんといっても空白期間が長かった。その空白をうやむやにし、妥協したり、譲歩したりするヤノフスキではない。「今どき」の人ではないのである。


贅沢な2演目

©︎池上直哉/東京・春・音楽祭2022《ローエングリン》より

 しかしその後、「東京・春・音楽祭」の《指環》続編で毎年顔を合わせるうちに、両者は再接近の度を深めていった。筆者がみるところ、《指環》シリーズも完結したのち、2022年の《ローエングリン》第2幕で、両者の密着度は一つの頂点に達しただろう。当時、筆者は新聞評でこう書いた。
 「悪玉テルラムントが怒髪天を衝く場面で、背景の弦楽がここまで鋭敏明瞭な例は、ちょっと他に思い出せない。ポリリズム(異なるリズムが重なる)再現への、おそるべき執念である。/加えて著しいのが音色への配慮。悪玉夫婦をとりまく黒い低音たるや。バスクラリネットがドスを効かせ、底光りしている。これがあってこそ、フルートで導かれる純白のエルザの登場も映えるのだ。」(2022年4月8日付『読売新聞』夕刊より)
 そして、きたる2024年春。私たちは、いよいよ彼らの《トリスタンとイゾルデ》を聴く。2016年、2017年と、かのバイロイト音楽祭で舞台つき上演を指揮し、2022年にはミュンヘンのバイエルン国立歌劇場でもピエール・オーディ演出の《パルジファル》を指揮したヤノフスキだが、基本的に、オペラはもう演奏会形式でしかやらない。その際、「アクションが視覚像よりもむしろオーケストラにこそ見出せる作品がよい」としており、ワーグナーの《トリスタン》は、まさにそんな作品だ。
 第2幕・第2場で延々と続く、恋人ふたりの睦言。第3幕・第1場をほとんど独占する、死に瀕したトリスタンの遠大なモノローグ。こうした場面に、視覚的な「アクション」は、本来、必要ないだろう。20世紀を先取りしたような音楽と、哲学詩のようなことばにこそ、集中したい。
 冒頭で触れた、ベルリン放送交響楽団との《トリスタン》上演を思い出す。第1幕でイゾルデが「死を私たち二人に」と叫ぶ直前、オーケストラが投じる和音の烈しかったこと!
 いっぽうで、第2幕の「マルケ王の嘆き」など、深く深く沈潜し、共感に満ちていた。ヤノフスキは、スコアにないことをやって安手の感傷に陥るのを良しとしないから、こうした場面が、いっそう心に迫るのである。
 「東京・春・音楽祭」の常どおり、今回、ソリストにも第一級の歌手が揃っている。トリスタン役のスチュアート・スケルトンは、先ほど触れたミュンヘンの《パルジファル》でタイトルロールを演じ、大好評を博した人。イゾルデを歌うビルギッテ・クリステンセンは、テオドール・クルレンツィスが2022年に指揮する予定だった《トリスタン》全曲(ただし実現せず)で、同役に抜擢された人である。欧州オペラ・シーンの「今」を、東京で味わえるというわけだ。
 さらに今回は、これとは別日に、《ニーベルングの指環》ガラ・コンサートも聴けるというから贅沢この上ない。こちらも歌手陣に「ヤノフスキ印」がしっかりと刻まれている。
 ヤノフスキは、現在シェフをつとめるドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団と2022年の秋にやはり演奏会形式で《指環》4部作を上演したのだが、そこでジークムントとジークフリートの両方を演じたのが、テノールのヴィンセント・ヴォルフシュタイナーである。ソプラノのエレーナ・パンクラトヴァとバリトンのマルクス・アイヒェは、すでにバイロイト音楽祭の常連として知られていよう。
 ヤノフスキは、2022年のドレスデン・リングを最後に、この4部作は「もう通しては指揮しない」と宣言しており、その意味でも、絶対に聴き逃がせない機会である。抜粋場面も、こま切れではない、ドラマの流れをじっくり味わえるものとなっているから、私たちの「渇」を癒してくれることだろう。

関連公演

東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.15
《トリスタンとイゾルデ》(演奏会形式/字幕付)

日時・会場

2024年3月27日 [水] 15:00開演(14:00開場)
2024年3月30日 [土] 15:00開演(14:00開場)
東京文化会館 大ホール

出演

指揮:マレク・ヤノフスキ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
/他


チケット料金

S:¥26,500 A:¥22,000 B:¥18,000 C:¥14,500 D:¥11,500 E:¥8,500
U-25:¥3,000


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The 20th Anniversary
ワーグナー『ニーベルングの指環』ガラ・コンサート

日時・会場

2024年4月7日 [日] 15:00開演(14:00開場)

東京文化会館 大ホール

出演・曲目

舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』より

序夜《ラインの黄金》より第4場「城へと歩む橋は……」〜 第4場フィナーレ
   ヴォータン:マルクス・アイヒェ(バリトン)
  ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
  フリッカ:杉山由紀(メゾ・ソプラノ)
  ヴォークリンデ:冨平安希子(ソプラノ)
  ヴェルグンデ:秋本悠希(メソ・ソプラノ)
  フロースヒルデ:金子美香(メゾ・ソプラノ)
  /他

 


 

第1日《ワルキューレ》より第1幕 第3場「父は誓った 俺がひと振りの剣を見出すと……」〜第1幕フィナーレ
 ジークムント:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
  ジークリンデ:エレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)

 


 

第2日《ジークフリート》より第2幕「森のささやき」〜フィナーレ
 第2場「あいつが父親でないとは うれしくてたまらない」―森のささやき
 第3場「親切な小鳥よ 教えてくれ……」〜第2幕フィナーレ
  ジークフリート:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
    森の鳥:中畑有美子(ソプラノ)

 


 

第3日《神々の黄昏》より第3幕 第3場ブリュンヒルデの自己犠牲「わが前に 硬い薪を積み上げよ……」
 ブリュンヒルデ:エレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)

 


 

指揮:マレク・ヤノフスキ
管弦楽:NHK交響楽団
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン


チケット料金

S:¥16,500 A:¥14,500 B:¥12,500 C:¥10,500 D:¥8,500 E:¥6,500
U-25:¥3,000


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