JOURNAL

ピアニスト、春の祭典 2020

文・青澤隆明(音楽評論家)

 みんなピアノから始まった。モーツァルトもベートーヴェンも、ショパンもブラームスも、スクリャービンもムストネンも――などと書いているのが空々しいほどだ。鍵盤から音楽が起ち上がる、ピアノは近代への合理的な音楽機械でもあった。多くの作曲家がピアノを工具や考具として、それぞれの音楽を構築していった。

エリーザベト・レオンスカヤ
©️Marco Borggreve

 つまり、それだけの自由と選択が、現在にいたるピアニストの手の内には広がっている。白と黒の鍵盤を前に、驚くほど透明で、目が覚めるほど鮮やかな色彩を拓いてくるのが、ピアニストそれぞれの魔法だ。
 東京・春・音楽祭は、オペラや合唱つき大曲に壮大な絵巻をくり広げてきたが、室内楽や歌曲にも行き届いた目配りをみせている。そして、もちろんピアノ音楽にも。私がすぐに思い出すのは、シリーズ「リヒテルに捧ぐ」、エリーザベト・レオンスカヤの「シューベルト・チクルス」、そしてイゴール・レヴィットの「Variations」。多くのことを思い、また考えさせられる機会にもなった。こうしてロシア関連のピアニストが連なったので思い出したが、アレクサンドル・メルニコフの「24の前奏曲」や、コンスタンチン・リフシッツの「バッハ:協奏曲全曲演奏会」も意欲的な企画だった。

 さて、この2020年には、例年よりも大勢のピアニストが、多彩なプログラムをくり広げる。ロシアに留まらず、中欧、北欧、東欧、トルコ、もちろん日本人の名手たちにも支えられて。実際のプログラムに沿って言うなら、まさしく国境も世代も超えた『春の祭典』の賑わいである。
 なかでも大きいのは、エリーザベト・レオンスカヤの三度目の登場だろう。初登場の年はシューベルト、この春はベートーヴェン最後の3つのソナタを弾く。先立つ宵には、モーツァルトのK310、330~332に、シェーンベルクの6つの小さなピアノ曲 op.19とウェーベルンの変奏曲 op.27 を交えて、独墺のピアノ音楽の過去と未来を照らす展望をみせる。
 そして、熱い期待が寄せられるのが、ブラームスのピアノ四重奏曲第2番イ長調op.26である。レオンスカヤとボロディン四重奏団による2015年春のシューマンとショスタコーヴィチは名演だったが、こちらもまたリヒテルと彼らが得意とした曲。矢部達哉、川本嘉子、向山佳絵子との顔合わせで、世代を超えた音楽精神のリレーが叶えられるはずだ。

 ピアノ・リサイタルでは、オリ・ムストネン、デジュー・ラーンキが、それぞれの進境を聴かせる。フィンランド生まれのムストネンは、作曲と指揮にも情熱を注ぎながら、独自の音楽思考を示してきた音楽家で、その選曲も演奏も清新な刺激と鋭い思慮を含む。シベリウス、ショパン、ブゾーニ、スクリャービンは彼の得意とするところで、そこに民族音楽の偉才に題をとった自作ソナタを織り込み、冴えやかな技巧と感性を閃かせることだろう。70歳も近づくハンガリーの名手ラーンキは近年、年輪の奥行きを湛えた演奏を聴かせているが、ハイドンとベートーヴェンの間に、ドビュッシーの2集の『映像』を挿むのもまた面白い。

 ピアニストにとって、ベートーヴェンを弾くのに記念年もなにも関係ないだろうが、しかし今年の東京春祭には、デュオやトリオの全曲演奏会が巧みに織り込まれている。ベートーヴェンのピアノ・ソナタは作品番号つきだとop.2から始まる。では、op.1は? といえば、3曲のピアノ三重奏。ピアノの津田裕也と、東京藝術大学での同級生の白井圭、門脇大樹によるトリオ・アコードが、3日連続のチクルスを通じ、偉才のさまざまな人間性も示してくれることだろう。弦楽器とピアノのソナタは、2つのチェロ・ソナタop.5が始まりで、op.102の2曲が最後作。こちらはクレメンス・ハーゲンと河村尚子のデュオが、3つの変奏曲も含めて、チェロとピアノの二重奏の全曲演奏を行う。
 また、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の初作、第2番変ロ長調op.19を、ショパンやブリュージュの古楽器コンクール上位入賞で注目される川口成彦が、フォルテピアノで弾く。モーツァルトの協奏曲とともに、古楽オーケストラ La Musica Collanaとの室内楽版で聴けるのも貴重な機会だろう。

 恒例の名物企画、東京春祭マラソン・コンサートも「ベートーヴェンとウィーン」をテーマに5つの視点から構成され、多様な楽曲のピアノが津田裕也、北村朋幹、三ッ石潤司に託される。また、N響メンバーによる室内楽では、佐藤卓史がピアノを弾く。

 もうひとつ、チャレンジングな企画が「The Ninth Wave - Ode to Nature」。ステファン・ウィンターの監督・脚本、安田芙充央の作曲を主とするサウンド・アートで、アンサンブルのピアノをトルコの双子デュオ、フェルハン&フェルザン・エンダーが担当する。
 さらに、エンダー姉妹はデュオ・リサイタルで、注目すべきプログラムを組んでいる。トルコの先達ファジル・サイの4手連弾「イスタンブールの冬の朝」と、「2台ピアノのためのソナタ」。ヴィヴァルディの『四季』を、クロアチア生まれのトミスラヴ・サバンの編曲による2台ピアノ版で。そして、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の4手連弾に、クルターグ編のバッハを織り込む、という構成だ。

 こちらが双子なら、いっぽう夫妻のピアノ・デュオ・タカハシ|レーマンは、レーガーの4手編曲によるバッハのブランデンブルク協奏曲全曲演奏会を行う。そして、バッハのチェンバロ協奏曲第1番は名手、迫昭嘉のピアノ独奏で、東京春祭チェンバー・オーケストラが採り上げる。

 ほかにも、パリ在住の児玉桃がヨーロッパの仲間たちと、フォーレ、プーランク、メシアンを共演。加藤洋之が郷古廉と室内楽シリーズを始めたり、アブデル=ラーマン・エル=バシャが戸田弥生と再会したり、青柳いづみこがフランス6人組の誕生、林正樹がフェリーニの生誕100年をそれぞれ祝ったり、三浦友理枝がフランスものを弾いたり、定番の歌曲シリーズに独墺の名手が続々と登場したり、展覧会に寄せては近藤嘉宏がニールセン、曽根麻矢子がヴァージナルでバードを弾いたりと、まさにピアノと鍵盤の春は爛漫なのである。

 
 
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