JOURNAL

The 20th Anniversary

20歳の頃 ~20名の大作曲家たちのエピソードをご紹介~

第5回

上野の山を彩る“桜の季節の風物詩”「東京・春・音楽祭」が20回目を迎えます。人間に例えてみれば、20歳は大人の仲間入り。世間一般に“個人”として認められる人生の大きな節目です。クラシックの世界に鑑みてみても、20歳の頃は、過去の偉大な作曲家たちが人生の節目を迎えつつある時期であったことが伺えます。というわけで、第20回を迎える「東京・春・音楽祭」に関連する作曲家たちの中から20人をピックアップして、彼らの「20歳の頃」を紐解いてみたいと思います。若き日の人間味あふれる姿を知ることによって、彼らが遺した音楽の素晴らしさもきっと“20倍”にも膨らむことでしょう。

文・田中 泰

●Vol.17:山田耕筰(1886-1965)

〜黎明期の日本音楽界に刺激を与えた“ふさふさ髪”の山田耕筰〜

童謡《赤とんぼ》や歌曲《からたちの花》などで名高い山田耕筰は、20世紀初頭の日本における西洋音楽の普及に努めた重要人物です。その耕筰は、18歳で東京音楽学校(後の東京藝術大学)予科に入学。22歳で卒業した後にドイツ留学を果たし、黎明期の日本音楽界に数々の貴重な情報と刺激をもたらします。当時の山田耕筰の写真を見ると髪はふさふさ。往年の坊主頭とは似ても似つかぬ姿がそこにあります。1930年44歳の折に「耕作」から「耕筰」へと改名した理由は、まさに自らの禿頭を気にしてのこと。名前にカツラをかぶせるために草冠(ケケ=毛毛)をつけたというそのセンスは流石の一言。20歳の頃のふさふさの髪は、その音楽同様、山田耕筰にとって、とても大事な思い出だったのかもしれませんね。

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●Vol.18:プロコフィエフ(1891-1953)

〜20世紀初頭のロシアを駆け抜けた風雲児〜

旧ソ連を代表する作曲家の1人プロコフィエフの20歳の頃は、優れたピアニストとして名を馳せ始めた時代でした。1910年に行われたサンクトペテルブルクの「現代音楽の夕べ」において、冒険的な自作のピアノ作品を複数披露。その中の《練習曲集 作品2》が主催者に強い感銘を与えたことが縁で、シェーンベルクの《3つのピアノ小品 作品11》のロシア初演を手掛けることになります。1911年には、ロシアの高名な音楽学者で評論家オッソフスキーからの支援がもたらされ、2年後の1913年に初の国外旅行に出発。パリとロンドンを巡る中で、セルゲイ・ディアギレフに出会い、運命が変わります。初期の《ピアノ協奏曲》2作が書かれたのもこの頃で、22歳の1913年に行われた《ピアノ協奏曲第2番》の初演においては、ストラヴィンスキーの《春の祭典》的賛否両論のスキャンダルを巻き起こします。

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●Vol.19:コルンゴルト(1897-1957)

〜20歳の天才による青春譜〜

今をときめく映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズ(1932-)などにも大きな影響を与えたコルンゴルトは、“モーツァルトの再来”と讃えられた神童です。彼が20歳を迎えた1917年は、彼の才能を世に知らしめたオペラ《死の都》の作曲に全力を注いでいた時期でした。その彼がもう一つ情熱を注いでいたのが、後に妻となるルツィとの恋です。父親の猛反対によって2人の愛が燃え上がるのは世の常、人の常。2人は1924年に結婚します。《死の都》の台本を待つ間には、メンデルスゾーンの《ピアノのためのスケルツォ》やシューベルトのピアノ曲《子供の行進曲》を弦楽合奏用に編曲。さらには、これらの編曲によって身に付けた初期ロマン派の書法を応用した《古風な舞曲》などを作曲。いやはや、何でも出来る20歳の天才像が浮かびます。

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●Vol.20:ショスタコーヴィチ(1906-1975)

〜作曲家とピアニストの二刀流を見直す分岐点〜

20世紀なかばを代表する旧ソ連の大作曲家ショスタコーヴィチは、19歳の年にレニングラード音楽院を終了。卒業作品《交響曲第1番》を翌年名門レニングラード・フィルハーモニー交響楽団が初演して大成功を収めます。大学院に進学した20歳のショスタコーヴィチは、翌1907年1月、第1回「ショパン国際ピアノコンクール」に挑みます。結果は、26人の参加者の中のファイナル出場者8人に選ばれますが、優勝できず。本人はかなりがっかりしたようですが、もし優勝していたらその後の作曲活動に大きな影響があったことでしょう。この時期には、交響曲第2番《10月革命に捧げる》や、オペラ《鼻》などを作曲。すでに新進作曲家として西側でもその名を知られる存在となっていたのですから流石です。

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田中泰(音楽ジャーナリスト/プロデューサー)

1988年「ぴあ」入社以来一貫してクラシックジャンルを担当。2008年「スプートニク」を設立して独立。「家庭画報web(名曲物語365)」「アプリ版ぴあ(クラシック新発見)」などの連載や、J-WAVE「モーニングクラシック」のナビゲーター、JAL機内クラシックチャンネルの構成などを通じて、一般の人々へのクラシック音楽の普及に尽力。

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