JOURNAL

ワーグナー集
2022/02/16

ワーグナーに魅せられた人たち

第5回 アンゲラ・メルケルとバイロイト音楽祭

ワーグナーに魅せられた人たち 第5回 アンゲラ・メルケルとバイロイト音楽祭

ワーグナーの作品は多くの人を虜にし、それらは“ワグネリアン”と総称される。 本連載では「ワーグナーに魅せられた人たち」をピックアップして紹介する。 第5回(最終回)は、熱烈なワグネリアンとして知られる「アンゲラ・メルケル(前ドイツ首相)」を取り上げる。

文・奧波一秀(日本女子大学教授)

右はメルケルとザウアー夫妻、左はバイエルン州首相マルクス・ゼーダー夫妻(2021年バイロイト音楽祭初日)
© Andreas Türk

 コロナ禍における対処が強く印象に残り、現代ヨーロッパの女性政治家としてマーガレット・サッチャーに次いで名を残すだろうと言われるアンゲラ・メルケル前ドイツ首相は、ワグネリアンとしても知られる。2005年秋に第八代首相に就任して以降、毎年欠かさずバイロイト音楽祭を訪れている。2006年、2014年、2016年以外はすべて初日のプルミエで、その華やかなドレスの色の選択が毎年、話題になった。首相就任直前の2005年夏にも《トリスタンとイゾルデ》プルミエを観ており、バイロイト初の東洋人指揮者となった大植英次と、イゾルデ役ニーナ・シュテンメと共にスナップ・ショットにおさまっている。

 牧師の家庭に育ち、合唱やピアノなども習っていたメルケルをバイロイトに導いたのは、夫のヨーアヒム・ザウアー(ベルリン・フンボルト大学教授)である。ふたりは1984年、東ドイツの科学アカデミーの同僚として知り合った。ザウアーは連日連夜の研究の合間に気晴らしで聴いていたラジオから流れてきた《ジークフリート》に衝撃をうけたのを機に、人生で一番の幸運はベルリンの壁崩壊、第二はバイロイト音楽祭に行けることだ、と公言するほどのワグネリアンとなる。壁崩壊翌年の1990年に初めてバイロイトを訪れたザウアーは、翌1991年にメルケルを音楽祭に誘った。二人はその後も毎年のようにバイロイトを訪れ、メルケルの首相就任後もこのプライベートな余暇の楽しみを続けてきた。二人とも、1993年からのハイナー・ミュラー演出《トリスタンとイゾルデ》を最も印象に残る上演としているが、これは二人の私生活上の事情もかかわっているかもしれない。ザウアーは1985年に、メルケルは1982年にそれぞれ前のパートナーと離婚、バツイチ同士の二人がバイロイトでのデートなどを経て結婚に至るのは1998年のことである。

 首相就任以来、毎年欠かさずバイロイトを訪ねるその姿は、ある意味、驚きではある。バイロイト音楽祭はヒトラーのナチ政権との関係が深かったため、戦後は首相や大統領の出席がはばかられてきた節があるからである。戦後初めてバイロイトを訪れた大統領はグスタフ・ハイネマンで、1969年のことだったが、首相にとってのハードルはさらに高かったようで、ワグネリアンの小泉純一郎首相を案内するかたちで、2003年にゲルハルト・シュレーダー首相が訪れたのが最初だった。ただし、プルミエではなく8月18日の公演だったし、翌年以降にシュレーダーが首相として音楽祭を訪れることはなく、彼のバイロイト再訪は首相退陣から14年後の2019年である。

 根っからの音楽好きであり、人権や自由・文化の多様性等に関するその政治姿勢が信頼されていたメルケルだからこそ、ヒトラー総統の回数をゆうに上回るしかたで粛々とバイロイト詣でをつづけ、戦後長く祝祭劇場を覆っていたかにみえるナチ・ドイツの亡霊を払い除ける役割を果たすことになったといえようか。

 メルケルはニーチェ同様、《トリスタンとイゾルデ》が一番のお気に入りだが、2018年の《ローエングリン》演出については「素晴らしい(Wunderbar)!」とのコメントを残している。「ドイツのためにドイツの剣!」との呼びかけや、エルザの体現する「女性の従順」というテーマが、うまく処理・解毒されていることを評価してのコメントなのだろうか。オルトルートのような「政治的な女性はおぞましい」と評していたワーグナーの価値観を、女性政治家としてどう受けとめているのだろうか、との疑問も浮かぶ。

 2021年12月の任期満了をもって退陣したメルケルにとっては、2021年夏が首相として最後のバイロイト詣でとなった。プルミエの《さまよえるオランダ人》を指揮したのは、ウクライナ出身のオクサーナ・リーニフで、バイロイト初の女性指揮者である。開演間際、女性指揮者について記者から尋ねられたメルケルは一言、「遂に(Endlich)!」と答え、劇場に入って行ったという。ドイツ初の女性首相として、長く待ち望んでいたことだったのだろう。



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