JOURNAL

ワーグナー集
2021/12/16

ワーグナーに魅せられた人たち

第2回 フリードリヒ・ニーチェとバイロイト音楽祭

ワーグナーの作品は多くの人を虜にし、それらは“ワグネリアン”と総称される。 本連載では「ワーグナーに魅せられた人たち」のなかから5人をピックアップして紹介する。 第2回は、ワーグナーに対する愛憎を露わにした哲学者「フリードリヒ・ニーチェ」を取り上げる。

文・奧波一秀(日本女子大学教授)

 バイロイト音楽祭が初めて開催されたのは、1876年8月13日。リスト、ブルックナー、チャイコフスキーら音楽家の他、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世、ヴュルテンベルク王カール1世などの姿もあった。芸術家とその作品が、各地の王侯貴族や著名人をドイツの片田舎に集めたことは、ワーグナーの明白な勝利だったといえよう。しかし、この勝利を苦々しい思いで眺めていた人物がいた。フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)である。

 弱冠24歳でバーゼル大学の古典文献学員外教授に就任し、アカデミズムでの信頼を失うリスクを冒してまで、『悲劇の誕生』その他でワーグナーの芸術のために弁じてきたニーチェの目には、金と暇をもてあました俗物たちに開放された祝祭は、ワーグナーの失敗あるいは「裏切り」とすら映ったようだ。

フリードリヒ・ニーチェ

 ピアノが堪能で作曲を試みるほど音楽を好んだニーチェは、14歳で《トリスタンとイゾルデ》のヴォーカル・スコアを通してワーグナーの作品を知り、ピアノ・スコアを通して「ワグネリアン」となった。ライプツィヒ大学時代に初めてワーグナーと会ったニーチェは、音楽の本質を理解した唯一の哲学者としてのショーペンハウアーについて楽匠が熱く語るのを聴き、大いに喜んだ。彼自身、数年前から『意志と表象としての世界』に魅せられていたからである。バーゼル大学着任後は、トリプシェンにあるワーグナーの別荘を頻繁に訪れるようになる。その回数、3年で23回。コジマの誕生日の朝を、「ジークフリート牧歌」の演奏で迎えた話は有名だが、このときニーチェも館にいて、その調べで目覚めたという。

 しかし、哲学をしたい音楽家と、音楽をしたい哲学者とは、早晩すれ違う運命だった。ニーチェが初めてワーグナーの別荘を訪れた際、ワーグナーが作曲していたのは、《ジークフリート》のブリュンヒルデの嘆き、「私を目覚めさせた人が、私を傷つけたのです」の箇所だったという。出来すぎたエピソードではあるが、まさに二人のその後の予兆となった。

 二人のすれ違いは、当の音楽祭の準備段階ですでに生じていた。ニーチェは当初、ワーグナーのために、バイロイト音楽祭への資金協力を募る「ドイツ人への警告」という文章を書いていたが、「なにをなすべきときかを知ってもらう」とか、「無知の徒を演じることは気ままとして許されることですらない」という居丈高な調子だったため、採用を見送られた。

 そもそもニーチェにしてみれば、ショーペンハウアー哲学の超俗的・超然的性格および天才同士のペシミズムを共有するはずだった同志ワーグナーが、世俗の権力者と繋がり、芸術への理解も怪しい聴衆を集めた音楽祭を嬉々として催す様子が許せなかったのだろう。芸術性の具現たる楽譜と台本を残すだけでは満足できず、世俗的な興業の成功を目指すワーグナーの姿に失望するニーチェ。その背後には、作曲も試みながら音楽では評価されなかった彼の鬱屈したコンプレックスもあったのかもしれない。

 ニーチェは音楽祭の直前、『反時代的考察』第四編として「バイロイトにおけるR.ワーグナー」という論文を書いた。その最後をどうしめくくるか、逡巡したうえ意を決し、遂にワーグナーへの戦端を開いた ―― ワーグナーは「過去の解釈者」「賛美者」ではあっても「未来の預言者などではない」、と。

1876年、第1回バイロイト音楽祭における《ラインの黄金》の上演風景

 しかしその批判は、傍目にはあまりにも韜晦にすぎた。開幕の準備に忙しいワーグナーは、ニーチェの失望を汲むことはできず、大学教授のありがたいお墨付きを得たと思ったのか、「友よ! あなたの本はすごい! どうしてそれほど私のことがわかるのですか?」と返信し、ルートヴィヒ2世に冊子を送ったほどだった。《ローエングリン》へのあこがれを具現した新たな白鳥の城(「ノイシュヴァンシュタイン」)は当時建築中で、ルートヴィヒ2世は、すぐ麓のホーエンシュヴァンガウ城にいたようだ。折り返し送られたワーグナー宛の電報には、「ニーチェの冊子、すぐに読み始めました。ことのほか釘付けにされました」とある。当のワーグナーはおろか、ルートヴィヒ2世さえ、ワーグナーへの明白な叛旗をそこに読み取ることはできなかったのだろう。

 ともあれ、最初のバイロイト音楽祭を機に、ニーチェは密かに、しかし決然と「ワグネリアン」卒業宣言をし、その後、病的といってよいほど攻撃的な批判を展開していくことになるのである。




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