JOURNAL

ワーグナー集
2022/01/06

ワーグナーに魅せられた人たち

第3回 山田耕筰

ワーグナーの作品は多くの人を虜にし、それらは“ワグネリアン”と総称される。 本連載では「ワーグナーに魅せられた人たち」のなかから5人をピックアップして紹介する。 第3回は、日本音楽界の黎明期を牽引した作曲家「山田耕筰」を取り上げる。

文・奧波一秀(日本女子大学教授)

山田耕筰

 《からたちの花》や《赤とんぼ》で知られる山田耕筰(1886-1965)が、熱烈なワグネリアンだったといえば、意外に思われるだろうか。幼い頃からキリスト教の家庭環境で育ち、教会の讃美歌・オルガン、横須賀の軍楽隊、築地居留地のピアノなどに親しんだ耕筰少年は、上野の音楽学校に学んだのちベルリンに留学、日本人として最初の本格的な交響曲を作るなど、西洋近代音楽の正道を歩んでいた。

 当初の憧れはメンデルスゾーンで、関西学院時代に初めて作った作品《my true heart》にもその影響が感じられるが、「ロマンティックなものを憧れる傾向がつのつて行くにつれ、遂にワーグナーに到達し、その偉に打たれてしまひ」、「ワーグナーが或る意味に於ける國民的作曲者であつた事から、ひいて、自分も、日本といふものを妙に愛慕し、自分も日本の楽劇の創設者になつてみたいといふ野心を抱い」た、と自ら述べている(『近代舞踏の烽火』1922)。ベルリン留学中、ワーグナーの方向性をさらに進めたR.シュトラウスに師事しようとするも、月謝が高すぎて断念。帰国途中のモスクワで聴いたスクリャービンに範を移していく。耕筰は帰朝記念演奏会で、自作と並び、《ローエングリン》前奏曲を指揮した。

 ベルリン留学の資金を出したのは、後に三菱財閥第四代総帥となった岩崎小彌太である。耕筰の帰国後も、東京フィルハーモニーの管弦楽を任せるなど支援は続いたが、興行的には赤字続きで、やがて岩崎家の援助も打ち切られてしまった。実はこの援助打ち切りには耕筰の女性スキャンダルも関わっていた。妻のいる自宅に幼馴染の女性をつれ込み、妻が家を出てしまったらしい。

 その後渡米して1年半ほどの活動で成功を収め凱旋帰国、1920年には日本楽劇協会を創立し、婦人矯風会の慈善興行として、ドビュッシー《放蕩息子》とワーグナー《タンホイザー》第三幕(本邦初演)を上演する。どちらもキリスト教をベースとした矯風会にふさわしいといえばふさわしい。とくに《タンホイザー》第三幕は、聖女エリーザベトの尊い犠牲によって放蕩騎士タンホイザーが救われるわけであるし、夕映の星や巡礼の合唱など、クリスチャンにとっても聴きどころは多いだろう。

 ただし、矯風会の興行を、かつて女性スキャンダルで世を騒がせた山田耕筰が担当するのは、いささかミスマッチではある。4年前のことでほとぼりも冷め、禊は済んでいた、ということかもしれないが、別の理由もある。耕筰の姉・ガントレット恒(1873-1953)が、矯風会の有力なメンバーのひとりだったのである。巡り合わせというのは不思議なもので、こともあろうにこの公演をきっかけに、耕筰はガントレット恒の秘書をしていた大橋房子と知り合い、恋に落ちてしまう。房子は当時未婚だったが、耕筰の方は前妻との間に一子、さらに再婚相手との間に男子が生まれてまだ一年も経っていなかった。周囲の風当たりは強かったのだろう、追いつめられた二人は、六甲山での心中まで決意したという。

 大橋房子(1897-1949)は青山女学院に学んだ才気煥発なモダンガールで、のちに佐佐木茂索と結婚し、作家「ささきふさ」としても活躍した。「実に美しい煙草の吸ひかたをする人で、会なぞで逢ふとみとれることがしばしばだ」と林芙美子は述べている。青山女学院在学中に矯風会の雑誌『婦人新報』の懸賞に応募し、「貞操論」で一等を受賞、それをきっかけにガントレット恒の秘書となったらしい。房子が「タンホイザー」耕筰の魅力に囚われてしまったのに対し、姉の恒は一貫した「エリーザベト」として弟のために祈っていたはずだが、父に似た耕筰の放埒ぶりはどうにもならなかったようだ。

 耕筰はワグネリアンであることは早々に辞めたが、度重なる女性スキャンダルや、パトロンとの関係のみならず、「音楽の法悦境」を構想したという点でも、ワーグナーのあとを追っているようなところがある。ルートヴィヒ2世のような強力なパトロンは現れず実現には至らなかったが、耕筰の壮大な企画力は、少年時代に過ごした自営館を作った田村直臣(1858-1934)を思わせるものがある。田村は現在の東京・大塚のあたりに3300坪もの土地を購入し、苦学生のための施設・自営館を建設した牧師である。からたちの生垣があり、ボートを浮かべた池やテニスコートも備えていた。スター音楽家ではなく「作曲家」になるのだと子供心に決めたのはこの自営館時代だったが、親元を離れての生活は大変だったようで、ひもじさをまぎらわすために「からたちの実」を食べていたという。その辛い思い出を反芻してきたこともあって、《からたちの花》は「すらすらと作曲出來た」と耕筰は述懐している。



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