JOURNAL

歌劇《ラ・ボエーム》について

文・岸 純信(オペラ研究家)

《ラ・ボエーム》第2幕の初演舞台スケッチ(1896年)

 ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)作曲の歌劇《ラ・ボエーム》全4幕は、1896年2月1日、イタリア北部のトリノの王立劇場で、俊英指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)の棒のもと世界初演が果たされ、ミラノの老舗楽譜出版社リコルディ(当時の社主はジューリオ・リコルディ:1840-1912)が版権を取得した。このオペラの成立過程には、これら3名の人間関係が大きく関わっているので、そこにまずはご注目いただこう。

 《ラ・ボエーム》は、お針子ミミと詩人ロドルフォの恋愛を中心に、貧しくとも夢を捨てない若者たちの生活ぶりを描くもの。劇中ではほかにも、画家マルチェッロと歌の得意な美女ムゼッタの結びつきや、音楽家ショナールの気前の良さと哲学者コッリーネの深い思いやりなど、主要な6名がそれぞれに個性を発揮するので、「青春群像劇オペラ」と呼ばれている。
 オペラの直接の原作は、フランスの小説家アンリ・ミュルジェル(1822-61)が劇作家テオドル・バリエール(1823-77)と組んで世に送った5幕立ての戯曲『ボヘミアンの人生 La Vie de Bohème』(1849年11月22日、パリのヴァリエテ劇場にて初演)である。こちらは、ミュルジェル自身の新聞小説『ボヘミアン生活の場景  Scènes de la Bohème』(1845年からル・コルセール紙にて連載。1851年に『Scènes de la vie de Bohème』と改題のうえ出版)を劇化したものであった。
 19世紀のパリでは、小説がヒットすれば急いで劇化の運びになる。そこで、目敏いバリエールがミュルジェルの自室を訪ね、「一緒に芝居を作りませんか?」と申し出たのだが、彼はこのとき、ミュルジェルの屋根裏部屋の雨漏りの烈しさに驚いたという(文芸評論家バルディックの論考による)。まさしく、小説そのままのシチュエーションであった。
 意気投合した二人は早速作業にかかった。ただ、小説をドラマ化する中で、ミミとミュゼット(オペラのムゼッタ)の性格が似すぎていると感じたバリエールは、ミュゼットには陽気で浮気っぽい側面を 付与し、ミミには感傷的な気質と欲得無しの心を持たせた。また、死ぬ前にミミがロドルフ(オペラのロドルフォ)のもとに戻る場では、バリエールが、小説内の一編『フランシーヌのマフ Le manchon de Francine』の逸話を転用し、観客の同情を買うよう工夫した(小説のミミは、誰にも看取られず病院で世を去っている)。

 さて、この『ボヘミアンの人生』を題材としてプッチーニに勧めたのは、先述のジューリオ・リコルディその人と伝えられている。作曲家とこの社主の正式な出会いは、1884年頃のこと。当時のプッチーニはオペラの処女作《妖精ヴィッリ》を書き上げて、新興の楽譜出版社ソンヅォーニョの作曲コンクールに応募したが、落選の憂き目にあっていた。しかし、ある宴席でオペラの抜粋をピアノで弾き、自ら歌って聴かせたところ、その瑞々しい旋律美が楽壇の大物たちの心を捉えたという。その中にジューリオが居た。青年作曲家とリコルディ社との強い絆がそこから始まったのである。
 この後、プッチーニは、実に9年間もリコルディから援助を受けたが、第3作《マノン・レスコー》の成功でやっと恩義に報いた。社主ジューリオもほくほく顔で、「巨匠ヴェルディの最新作《ファルスタッフ》を上演したければ、新進プッチーニの《マノン・レスコー》もよろしく!」と欧米中に売り込んだ。《ファルスタッフ》の世界初演は1893年2月9日、ミラノ・スカラ座にて。《マノン・レスコー》は1893年2月1日、トリノの王立劇場と僅か8日違いである。楽譜出版社はどこも、上演用の楽譜一式を歌劇場にレンタルして稼ぐ。リコルディ社としては、新進プッチーニの売り出しの機を逃すはずもなかった。

 そこで、プッチーニはさらなる成功を目指し、台本作者ルイージ・イッリカ(1857-1919)と劇作家ジュゼッペ・ジャコーザ(1847-1906)の二人と協力して、新しいオペラ作りに精魂を傾けた。その際は先述の通り、恩人リコルディが題材選びに関わったようだが、そこには、作曲家のミラノでの苦学の思い出も重なっていたらしい。
 というのも、学生時代のプッチーニは、生活費を節約すべく、音楽院での仲間ピエトロ・マスカーニ(1863-1945)と一年ほど同宿し、出版されたばかりのワーグナーの楽劇《パルジファル》のスコアを、金を出し合って購入、一緒に読み進めたという。こうした記憶を、二人は共有していた。
 しかし、そのマスカーニがソンヅォーニョ社の作曲コンクール《カヴァレリア・ルスティカーナ》(1890年、ローマにて初演)で優勝すると、彼はそのまま同社の専属になり、商売敵のリコルディの庇護を受けるプッチーニから遠ざかった。二人はのちに敵対関係に至るが、この顛末を思い返すたび、筆者は、「《ラ・ボエーム》の若者たちは、憐れなミミの死という現実に触れて、そこから先、どうしたことか」とついつい想像してしまう。人間の成長には、他者との別離が必須とも思えるからである。
 ところで、1893年の3月に、同輩作曲家のレオンカヴァッロとカフェで偶然に再会したプッチーニは、相手も同じくミュルジェルの物語のオペラ化を手掛けていると知り、対立する(レオンカヴァッロの同名作は、1897年ヴェネツィアにて初演)。二人の争いは新聞記事の応酬で露わになったが、プッチーニの姿勢は、記事内の有名な言「彼に作曲させろ、私も作曲する、公衆がそれらを判断することだろう」が伝える通りであった。

《ラ・ボエーム》初演時のポスター(1896年)


 その後、《ラ・ボエーム》の作曲は1895年12月10日に完成し、先述の通り、翌年2月1日にトリノの王立歌劇場で初演され、当時29歳のトスカニーニが指揮台に立った。音楽学者バッデンによると、この時期、因縁のソンヅォーニョ社の社主がミラノ・スカラ座の経営に携わっていたため、競合相手のリコルディ社絡みの演目が排除される図式になったという。それゆえ、プッチーニの新作初演もスカラ座以外の劇場が念頭に置かれ、最終的に、前作《マノン・レスコー》を上演したトリノの地が選ばれたのである。

 なお、《ラ・ボエーム》の初演指揮者にトスカニーニを推薦したのは、御大ヴェルディとされる。楽譜を精読し、作曲意図に忠実であろうとするトスカニーニは、老大家に直に意見を求める機会を心から有り難がっていた。タウブマンの有名な伝記本が紹介する通りだが、ヴェルディの宗教曲を振るに際して、ある箇所で楽譜に無い「リタルダンド(だんだん遅く)」が必要ではと悩んだ指揮者は、大作曲家にその旨を直接尋ねた。すると、「本物の音楽家ならそう感じるはずだ。でも、ritardandoと記譜するとみな遅く演奏しすぎる」と返答され、安堵したという。大指揮者のそうした「徹底した読譜から生まれる解釈」の在り方は、現代では、東京・春・音楽祭にも縁の深いリッカルド・ムーティに受け継がれているのだろう。
 ちなみに、《ラ・ボエーム》に関しては、初演評が冷ややかであったとする文献が多い。評者たちは《マノン・レスコー》と同じく奔流のドラマと旋律美を想像していたので、青春群像が絵物語的に展開する《ラ・ボエーム》には困惑した。また、音楽技法の面では、第3幕冒頭でフルートとハープが奏でる完全五度の進行(禁忌の技法)に拒絶反応が生じた。
 このほか、音楽学者アッシュブロックによれば、ワーグナーの《神々の黄昏》のイタリア初演が直前の1895年12月22日に同じ劇場で行われた(こちらもトスカニーニが指揮)ことも、専門家たちの意識に影響したようである。しかし、《ラ・ボエーム》が初演からの一カ月で24回も続演され、満員御礼の状態が続いたことからは逆に、客席の熱狂ぶりが見て取れるだろう。第1幕のロドルフォのアリア〈冷たき手〉とミミの〈私の名はミミ〉の相聞歌の如き麗しいやりとり、第2幕のカルチェラタンの活気漲る群衆シーンとムゼッタの婀娜(あだ)っぽいワルツ、第3幕のカップル二組の対照的な別れの四重唱など、みな、客席の心を鷲掴みにした名場面である。作曲者の手紙(1896年2月末、ジューリオ・リコルディ宛)にも、本作の成功を大いに喜ぶさまが綴られているので、その旨付記しておきたい。

(「東京・春・音楽祭2021」公式プログラムより転載)

関連公演

東京春祭プッチーニ・シリーズ vol.5
《ラ・ボエーム》(演奏会形式/字幕付)

日時・会場

2024年4月11日 [木] 18:30開演(17:30開場)
2024年4月14日 [日] 14:00開演(13:00開場)
東京文化会館 大ホール

出演

指揮:ピエール・ジョルジョ・モランディ
ロドルフォ(テノール):ステファン・ポップ
ミミ(ソプラノ):セレーネ・ザネッティ
マルチェッロ(バリトン):マルコ・カリア
ムゼッタ(ソプラノ):マリアム・バッティステッリ
ショナール(バリトン):リヴュー・ホレンダー
コッリーネ(バス): ボグダン・タロシュ
管弦楽:東京交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
/他


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