JOURNAL

オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭(第2回)

第2回 バイロイトで出会った巨匠たち

眞峯紀一郎(ヴァイオリニスト)

 昨秋、新宿の朝日カルチャーセンター行なわれた眞峯紀一郎さんの講演「オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭」。連載第2回は、クライバー、ブーレーズ、ショルティなどがバイロイト音楽祭に登場した1970年代半ばから1980年代前半までを振り返ります。

バイロイトで演奏することのむずかしさ

 バイロイト祝祭管弦楽団に応募してくる演奏者は、なかば「奉仕でもいい」という強い意欲を持ってやって来ます。彼らの多くは、ワーグナーの作品をさまざまな指揮者のもとで演奏した経験を持ち、テキストを熟知し、自分自身の「ワーグナー観」を携えています。そうした演奏者たちを十分に納得させて、いい音を引き出す指揮者の仕事は、本当に大変だと思います。私にはルツェルン音楽大学の学長を長年務めている友人がいます。彼はもともと合唱指揮者なので、バイロイトの練習をぜひ見学したいと望み、私が何度かリハーサルに招待しました。そのとき彼は、指揮者がオーケストラの演奏を止めて指示を与えても、あまり音が変わらないことが多い、ところがクリスティアン・ティーレマンの場合には、指示を与えた前と後とでは音がガラリと変わる、と言うのです。ティーレマンがどんな音を求めていて、それが正確にオーケストラに伝わる様子がよく分かる、と彼は感心していました。優秀な指揮者には、オーケストラを納得させられる力があるのですね。

 バイロイト音楽祭の指揮者が、非常に苦労することがもう一つあります。それは練習期間と公演期間がはっきり分かれている点です。だいたいバイロイトのオーケストラ練習は6月20日前後から始まります。最初は、原則として一幕につき一回、2時間半のオーケストラ練習が行なわれ、それが終わると舞台練習が続きます。そして公演前の7月中旬からゲネプロが始まり、本公演に備えます。指揮者(そして、複数の公演を掛け持ちしている歌手)にとってむずかしいのは、演目毎の練習が複雑に入り組んでいて、ある演目はまだオケ練習なのに、別の演目はすでに舞台練習に入っていたり、練習と練習のあいだが長く空きすぎたりすることです。さらに音楽祭が始まると、もう練習はできなくなるので、仮に本番で不具合が生じたとしても練習による修正は不可能です。ですから指揮者にとっては、次の公演において自分の“棒”で示すしか修正の方法がないのです。また、自分が練習をつけたオーケストラが音楽祭のあいだ、他の演目では別の指揮者と演奏して“浮気”しているのですから(笑)、自分が指揮する公演のときに、はたして以前の練習通りの演奏ができるかどうか、大変不安に感じることでしょう。こうしたバイロイトならではのペースに慣れることも、指揮者にとって不可欠な要素だと思います。

クライバー、ブーレーズとの演奏体験

 1974年、カルロス・クライバーのもとで《トリスタンとイゾルデ》を演奏しました。クライバーは“気むずかしい指揮者”というイメージを持たれていますが、私はそうは感じませんでした。本当の彼は、非常に繊細で、傷つきやすい人だったと思います。オーケストラ練習のとき、前奏曲の冒頭のチェロが、何度繰り返しても彼の望む音を出せなかったことがありました。するとクライバーは、奏者に対して腹を立てたりはせず、「私の振り方では分からないでしょうか?」と、むしろ自分の問題として考えるような人でした。決して“おれについて来い”というタイプの指揮者ではなかったと思います。クライバーの楽屋にお邪魔すると、彼の子供たちの描いた絵がたくさん壁に貼ってあり、いろいろ話をしてくれました。

 1976年は、バイロイト音楽祭が“百周年”を迎えた記念すべき年でした。その年に《リング》の指揮者に抜擢されたのが、フランス人のピエール・ブーレーズでした。演出は、同じフランス人のパトリシアス・シェローです。シェローの演出は、バイロイトの舞台に初めて政治や社会情勢を取り入れて大騒ぎになったのですが、ここでは演出ではなく、ブーレーズの話をしたいと思います。

 我々は、ブーレーズに大きな期待を寄せて、その登場を待っていました。しかし残念なことに、彼は事前の準備を充分にせず、バイロイトにやって来たのです! これには驚きましたし、憤りも感じました。オーケストラ・プレーヤーでさえ何年も経験を積んで、バイロイトに臨むのに、指揮者がそんなことでいいのだろうか? と疑問に感じました。この話はこれまでに、ほとんど報道されたことがないのではないでしょうか。

 あるとき、こんな出来事が起こりました。《ジークフリート》の第三幕に32小節にわたり、第一ヴァイオリンだけで静かに演奏するところがあります。ジークフリートがブリュンヒルデに会いにいく場面です。そこはヴァイオリンの最低音であるGから始まるのですが、オケ練習のときに第一ヴァイオリン16人全員で申し合わせて、同じGの音で始まるブルッフのコンツェルトを弾いたのです!オーケストラの他のセクションの奏者や、練習に同席していたルネ・コロなどの歌手はみんな驚いて、なかには噴き出している人もいました(笑)。しかし、そのときでさえブーレーズは、顔色一つ変えないで、静かに拍子をとっていたのです。ブーレーズはそういう冗談を解する人ではありませんでした。今になって思うと、我々の「抵抗」はかなり危険なものでしたね。

 《リング》の上演では、最終日の《神々の黄昏》を演奏し終えたあとに、オーケストラ奏者がステージに上がるのが慣例になっています。しかし、ブーレーズが指揮した76年には、オーケストラがそれを拒否しました。そして翌年、新たな問題が発生しました。オーケストラのメンバーの6割以上が、ブーレーズに抗議して、音楽祭への参加をキャンセルしたのです。そのときは、メンバー編成の責任者であるオーケストラディレクターも辞任したので、新任の担当者はずいぶん苦労したそうです。ただ、ブーレーズは非常に才能のある人ですから、その後、徐々にバイロイトに慣れていき、最終年には自身の目指すワーグナーを演奏できるようになりました。ここでの話はあくまでも、彼がバイロイトで《リング》を振った最初の年のことです。

 実は私も、ブーレーズの2年目から祝祭管弦楽団への参加を見合わせ、再びバイロイトに戻ったのは、ブーレーズが去った1981年でした。5年ぶりにバイロイトに復帰して、まず感じたのは“指揮者の世代交代”でした。81年にはペーター・シュナイダーやダニエル・バレンボイムが、翌82年にはジェームズ・レヴァインがバイロイトに初登場しました。

ショルティの思い出

 1983年、ゲオルク・ショルティがバイロイトにやって来ました。彼の指揮は、ご存じの通りとても“ガチガチ”しているのですが、音楽に対する要求は非常になめらかで、最初は面食らいました。また、オケ練習が始まる直前、彼が金管楽器の奏者をシカゴ交響楽団から連れて来ようとしているといった噂が流れて、少し緊張状態になりましたが、さいわい大事には至りませんでした。結局、ショルティは、一年でバイロイトを去ることになったのですが、70歳を越した彼が、夏の10週間、バイロイトに滞在してワーグナーを指揮するのは、想像以上に大変だったのかもしれません。

 《リング》の第一チクルスのときは、《ヴァルキューレ》と《ジークフリート》のあいだに一日休みが入ります。そこで、第一ヴァイオリンのグループが親睦会を開きました。天気の良い日の午後、メンバーの家族も一緒に、家を一軒借り切ってパーティーを開いたのですが、その家が偶然にもショルティが滞在していたお屋敷の隣だったのです! 彼はその日の午後、ずっとテラスに座り、スコアを机の上に置いて、指揮の練習をしていました。当然、我々はショルティをパーティーに御招待しました。しかし答えは「ノー」でした。そういう張り詰めた状態で過ごす10週間は、精神的にも肉体的にも負担が大きかったと思います。ショルティにはもう一年、指揮して欲しかったですね。そうすれば我々も、もっと彼のことを理解できたと思うのです。


(第3回に続く)

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