JOURNAL

オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭(第1回)

第1回 バイロイト音楽祭と祝祭劇場

眞峯紀一郎(ヴァイオリニスト)

 これから3回にわたってお届けするお話は、2010年10月22日、朝日カルチャーセンター(新宿)で開催された眞峯紀一郎さんの講演「オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭」をもとに作成したものです。眞峯さんは1973年から31年間、バイロイト祝祭管弦楽団に参加された経験を持つヴァイオリン奏者です。 まず第1回は、バイロイト音楽祭の歴史や、独自の構造・音響を有するバイロイト祝祭劇場についての話題です。

バイロイト音楽祭の歴史

 ここでは「バイロイト音楽祭」について、一人の演奏家の立場から、お話ししたいと思います。音楽に対する印象や感想は、人によってそれぞれ異なる主観的なものなので、以下の話は、あくまで私個人が感じたこととご理解ください。

 バイロイト音楽祭は、リヒャルト・ワーグナー(1813〜83)が自分の作品を上演するために創設した音楽祭です。既存の劇場に満足できなかったワーグナーは、次第に自分の理想にかなった劇場を建てたいと考えるようになりました。しかしそれは、あまりにも壮大な計画で、なかなか実現しませんでした。ところが運良く、ワーグナー作品の熱狂的な崇拝者であったバイエルン国王のルートヴィヒ2世(1845〜86)が莫大な援助を行なったことで、バイロイトの地に自らの設計で劇場を建築することができたのです。

 バイロイト祝祭劇場を建てる際、ワーグナーがどうしても実現したかったのは、舞台と客席とを隔て、聴衆が音楽に集中するのを妨げる“オーケストラボックス”を覆うことでした。ですからバイロイト祝祭劇場は、オーケストラボックスを舞台の下に掘り入れた構造になっており、聴衆からは指揮者もオーケストラも見えないようになっています(そのため指揮者や演奏家にとっては、本番のときでも思い思いの楽な服装で演奏できる、という利点もあるのですが)。この構造には、オーケストラの音量が適度に和らげられて、歌手の声が通りやすくなるという効果もあります。

 第一回の音楽祭は1876年に開かれました。それ以来、何度か中断はあったものの、130年以上にわたってバイロイト音楽祭は、世界中から最高の指揮者と歌手が集まる、ワーグナー・オペラの“メッカ”としての地位を保ち続けています。さいわい祝祭劇場は、第二次世界大戦の爆撃などを受けることもなく、ほぼ創建当時の姿のままで、今日の上演に使用されています。

 1883年にワーグナーが亡くなると、妻のコジマが音楽祭を引き継ぎ、そのあとは息子のジークフリートに託されました。ジークフリートの死後は、彼の妻であったヴィニフレートが音楽祭の主宰者となりました。しかし、ヴィニフレートはヒトラーとも親交があったため、ワーグナーの作品がナチスの宣伝に利用されるといった不幸な歴史も生まれてしまいました。

 音楽祭は戦後、数年の中断を挟んで、1951年に再開されました。このときは、ジークフリートの息子(リヒャルトの孫)である、ヴィーラント・ワーグナーとヴォルフガング・ワーグナー兄弟が、音楽祭の再興のために尽力しました。1966年、兄のヴィーラントが49歳の若さで亡くなったあとは、ヴォルフガングが長年にわたり音楽祭を取り仕切りました。2009年からはヴォルフガングの二人の娘、カタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーが総監督のポストに就き、現在に至っています。ヴォルフガングは2010年に90歳で亡くなりました。

バイロイト祝祭管弦楽団での“他流試合”

 私が初めて全曲通して演奏したワーグナーのオペラは《パルジファル》で、読売日本交響楽団に在籍していた1967年7月のことです。指揮は若杉弘、会場は上野の東京文化会館でした。そしてドイツに留学する直前の69年に、《ラインの黄金》も演奏しました。どちらの作品にもシャープやフラットがたくさん付いていて、「ワーグナーは長くてむずかしいのでコリゴリ」と感じました。しかし今になって思えば、この二作品は、ヴァイオリン奏者にとって技術的には、ワーグナーのなかではもっともやさしいものです。

 渡独後、ベルリン・ドイツ・オペラに入団し、ベーム、ヨッフム、ザヴァリッシュ、マゼール、シュタイン、ホルライザーといった指揮者のもとでワーグナーを演奏し、自信もついたところで、バイロイトで“他流試合”をしてみたいと思い、祝祭管弦楽団に応募しました。すると、たまたま空席が生じ、その夏の音楽祭に参加できることになりました。1973年のことです。

 バイロイト祝祭管弦楽団に参加する際、特別な試験はありません。自分で応募するのですが、そのときに団員の推薦が必要です。そして主宰者を加えた委員会による選考を経て、空席が生じた際に、お呼びがかかるという仕組みになっています。

 招待された最初の年は“試用期間”に相当し、指揮者やまわりの団員からいろいろな面で試されています。独り勝手な弾き方をする人、仲間と上手く合わせられない人、やる気のない人などは、次の年から声がかからなくなります。ですから、初めて参加した人にとって、翌年以降も祝祭管弦楽団に定着するのは、なかなか大変なのです。

「テキスト」「テンポ」「音響」の重要性

 私が音楽祭に初参加した1973年の演目に、オイゲン・ヨッフムの指揮による《パルジファル》がありました。ヨッフムはどのオーケストラに客演するときも、使い古した大きな革のカバンを持ってやって来ました。彼は人間味に溢れ、とても好感の持てる指揮者でした。また、同年の《リング》を振ったのはホルスト・シュタインで、彼はワーグナーの作品や祝祭劇場の音響を熟知した名指揮者でした。シュタインは自分の声域がテノールだったので、リハーサルのときに歌手がミスしたりすると、自ら声を張り上げてよく歌っていました。

 私は、ワーグナーの作品を演奏するには「テキスト」「テンポ」「音響」の三点がもっとも大切だと考えています。個々の要素について詳しく述べることは控えますが、一つ申し上げておきたいのは、「ワーグナーの作品は適切なテンポをとれば、きちんと演奏できるように書かれてある」ということです(R.シュトラウスの《影のない女》や《アラベラ》などには、演奏者がどう頑張っても弾くことが困難な箇所があります)。ですからワーグナーのオペラを、感情に任せてむやみに速いテンポで演奏するのは間違っている、と思います。聞いている人は興奮するかもしれませんが、オーケストラのアンサンブルは滅茶滅茶になってしまいます。もちろん、遅ければ良いというわけでもありません。

 ワーグナーの書き残した「テキスト」の重要性については、改めて説明する必要もないでしょうが、特に指揮者は、テキストの意味とホールの音響をよく理解し、歌手の声量やコンディションなども考慮しながら、オーケストラを統率していかなければならず、非常に重要な役割を担っています。

 次に「音響」についてですが、バイロイト祝祭劇場では、オーケストラの音量を抑えるのは、劇場の構造上それほどむずかしいことではありません。しかし、単に抑えるだけでは不十分で、舞台で歌う歌手とオーケストラの最適なバランスを見つけることが肝心です。さらに祝祭歌劇場のピットでは、オーケストラの音がまず「反響板」にぶつかり(この反響板が、聴衆からオーケストラと指揮者を隠す“覆い”にもなっています)、そこに反射した音が舞台に届きます。ですから、歌手たちが舞台で聞く音は、我々が弾いたタイミングよりワンテンポ遅れているのです。そのためオーケストラは、舞台から聞こえてくる声に合わせるのではなく、指揮者の棒に対して忠実に演奏しなければなりません。指揮者のなかにはリハーサルのとき、助手に指揮を委ねて自分は客席に座り、そこでの聞こえ方を確かめたり、逆に助手を客席に座らせて、彼と電話で連絡をとりながら指揮して、テンポや音量のバランスを確認したりする人もいます。このように、祝祭劇場で指揮をするのは、普通の劇場では体験できないむずかしさもあるのです。その独特の音響に馴染めずに、バイロイトを去って行った指揮者も何人かいます。


(第2回に続く)

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