JOURNAL

「合唱」が語るヨーロッパ史

第9回:20世紀 その2

クラシック音楽の根幹をなす「合唱」作品の歩みを振り返る本連載もいよいよ最終回をむかえた。今回は、戦禍の中から生まれた合唱作品を振り返りながら、合唱音楽の根本的なメッセージを問うてみたい。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学大学院都市イノベーション学府教授)

 

ラフマニノフの《鐘》

 「合唱交響曲」というジャンルがある。有名なところでは、ロシア出身のセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)が作曲した《鐘》。

セルゲイ・ラフマニノフ

セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)

 もちろん「合唱交響曲」と銘打たれている通り、合唱(ならびに独唱)が全篇に渡って大活躍する。この点では、元々の交響曲の概念のように器楽のみが活躍するのではなく、大編成の合唱がほぼ出ずっぱりで歌い続けるマーラーの交響曲第8番《一千人の交響曲》とよく似ているかもしれない。じっさいラフマニノフ自身、当初はこの作品を、器楽のために書かれた交響曲第1・2番に続く「交響曲第3番」と呼んでいた時期もあるほど。

 それにしても、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)の《第九》のひそみに倣い、交響曲の結論部分に当たるフィナーレに合唱が登場するパターンが多い中、ラフマニノフはあえて交響曲の全篇に合唱を取り入れた。もちろん合唱が活躍するジャンルとしては、宗教的な歌詞に基づくミサ曲、あるいは世俗的な歌詞もO.K.のオラトリオが存在しており、そうした意味では《鐘》もオラトリオなのかもしれないが、あえてそれを交響曲と呼んだところにラフマニノフのこだわりがうかがえる。

 つまりは、ベートーヴェン以来、作曲家の考え方や生き方を大編成のオーケストラを用いて喧伝するようになった交響曲というメディアに、オーケストラだけでは飽き足らず、人間の声を持ち込んだのである。そこまでして、人間の声による訴えかけが必要だったということだが、では《鐘》の内容はといえば、様々なシチュエーションで鳴らされる鐘が、人生や世の中の4つの局面「若さ/幸せ/戦争/死」を象徴するというもの。特に曲の後半部分は、まがまがしい戦場の様子や弔いの場面に覆われる。

 ちなみにこの作品が作られたのは1913年のこと。1年後には第一次世界大戦が勃発し、《鐘》に描かれた世界は現実のものとなってしまった。

戦争から生まれたアーサー・ブリスの《朝の英雄たち》

 第一次世界大戦が勃発した時、ヨーロッパの少なからぬ文化人がこの戦争に賛同した。19世紀を通じてもたらされた輝かしい繁栄の陰で様々な問題を抱えていた社会が、戦争によってリセットされることを、彼らの多くが望んでいたのである。

アーサー・ブリス

アーサー・ブリス(1891-1975)

 だが、実際はそのようにならなかった。戦勝国・敗戦国の別を問わず、ヨーロッパ全土が未曾有の戦禍に見舞われ、無数の命が失われた。戦争が終わってみれば、19世紀までヨーロッパが享受してきた数々の栄光は失われ、経済不況や政治不安が途切れることなく蔓延していった。

 そうした中で、新たな「合唱交響曲」が登場することとなる。イギリスのアーサー・ブリス(1891-1975)が1930年に作曲した《朝の英雄たち》。副題には「第一次世界大戦の犠牲者への鎮魂の思いをこめた合唱交響曲」とある。第一次世界大戦においてイギリスを含むヨーロッパ諸国の多くでは、総力戦を旗印に成年男子を徴兵する制度が敷かれていったが、ブリスの弟もそうした中で西部戦線に派遣され戦死した。

 このような経緯があって生まれたのが当作品であり、テキストには古代ギリシアのホメロスや中国の李白(701-62)のものの他に、同時代人のイギリス人であり第一次世界大戦の地獄絵図をつぶさに描いたウィルフレッド・オーウェン(1893-1918)とロバート・ニコルズ(1893-1944)の作品が取り上げられている。

 《朝の英雄たち》は、第一次世界大戦終結から10年あまりの後に生まれた、反戦と平和を旗印にした作品に他ならない。しかもそうした内容を扱うには、器楽によって表現される抽象的な音楽だけではなく、不特定多数の人々を象徴する合唱が訴えかける言葉を伴った音楽の存在こそ重要、という考え方だろう。じっさいこの作品には、オーケストラと合唱はもちろん、「言葉によるメッセージ」をより明確にするべく、ナレーターも動員されているのだ。

ブリテンの合唱作品

 それでも、歴史は繰り返された。1939年から1945年にかけて第二次世界大戦が勃発。世界は再び悪夢に見舞われ、第一次世界大戦以上の災いが地球規模でもたらされた。

ベンジャミン・ブリテン

ベンジャミン・ブリテン(1913-76)

 そんな第二次世界大戦終結から間もない1949年、再びイギリスで「合唱交響曲」と呼べる作品が誕生する。ベンジャミン・ブリテン(1913-76)が作曲した《春の交響曲》だ。編成はオーケストラと独唱、混声合唱と少年合唱であり、曲の随所で合唱が活躍する。

 それにしても「春の交響曲」というタイトルだけのことはあって、曲の出だしの合唱の言葉からして「輝きいでよ」という希望に満ちたもの。戦争の暗雲がようやく去った時代の解放感に溢れている。テキストは13世紀から同時代のものまで幅広く選ばれているが、作品の最後が『夏は来りぬ』という14世紀の歌詞と音楽を基にしているのも特徴だ。近代のヨーロッパで多かれ少なかれ信じられてきた「音楽の進化」とは対照的に、過去の遺産に目が向けられた格好である。

 これはある意味、単なる懐古趣味とは異なる、ブリテンなりの決意表明だったのではないか。「進歩」「進化」への盲信がもたらした2つの世界大戦と決別するためには、あえて当の「進歩」「進化」とは異なる方向性を目指す・・・。それこそが、「春=新たな時代」を標榜することによって、「進歩」や「進化」から距離を置き、古いものにこそ目を向けようとするブリテンの姿勢だった。

 ブリテンは第二次世界大戦中、イギリスで敷かれた国民皆兵の動きの下にあって、反戦の立場から兵役拒否をおこなった人物である。そして1962年には、戦後最大のレクイエムと評される《戦争レクイエム》を初演し、平和主義者としての立場をいっそう明確にしていった。そんな彼が、あえて大昔のスタイルを取り入れつつ、合唱交響曲を大戦直後に書いたことの意味は限りなく大きい。

平和への切実な願いを宿した《レクイエム》

 それにしても、なぜ《レクイエム》なのだろう? ブリテンは、第一次世界大戦で戦死したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェンの詩を随所に加えながら曲を完成させたが、全体のメインをなすテキストは、古くからカトリック教会で用いられてきたラテン語の「レクイエム」だ。

 19世紀に新たな社会の担い手となった市民たちの心が、従来の権威と見なされていた教会から次第に離れ、その中で「レクイエム」をはじめとする宗教音楽にも様々な変化が見られるようになったというのは、このシリーズの第6回にも記した通り。にもかかわらず、20世紀も半ばになって、あえて古いラテン語によるレクイエムへの回帰が見られるようになった恰好である

モーリス・デュリュフレ

モーリス・デュリュフレ(1902-86)

 もちろんそこには、19世紀的な方向性に背を向け、大昔の素材にインスピレーションの源を得るという姿勢が見て取れる。だがそれにもまして、一見して古色蒼然とした素材の中に、人間の生と死をめぐる真実が刻み込まれていることを、二度にわたる世界大戦の経験者であるブリテンは痛感したからにちがいない。(もちろん彼は、ラテン語の標準的なテキストに拘るのではなく、そこに同時代的な問題意識の投影された詩を交えたのだが。)

 そんなブリテンの姿勢を先取りするかのように、第二次世界大戦後の《レクイエム》の傑作を書いた1人が、フランスのモーリス・デュリュフレ(1902-86)。彼もまたラテン語のレクイエムに依拠する一方で、よき先達であるガブリエル・フォーレ(1845-1924)のひそみに倣うかのように、通常のレクイエムのテキストの範疇をこえる歌詞を自由に選び、また中世のグレゴリオ聖歌の技法も取り入れつつ、近代ヨーロッパ社会に持て囃された大編成の咆哮とは真逆の、静謐な作品を書いた。

 時は1947年。戦争の惨禍がそこかしこに見られた世界のただ中にあって、死後の裁きや地獄行きを描く従来のレクイエムとは異なり、非業の死を遂げた人も生き残った人も優しく慰撫するかのような《レクイエム》が生まれた。そしてここに合唱の歌声は、平和への切実な願いを宿して響き始めた。

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