JOURNAL

「合唱」が語るヨーロッパ史

第5回:ベルリオーズ

西洋クラシック音楽の根幹を成す「合唱」の歴史を振り返る本連載。第5回では、19世紀初頭のフランスに生を受け、合唱音楽に重大な変革をもたらしたベルリオーズにスポットをあてる。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学教育人間科学部准教授)

 

破格の作品の誕生

 アヘンを致死量ぎりぎりまで吸って朦朧とした意識の中で、自分を捨てた恋人を殺し、その恋人の亡霊に逆に自分がいたぶられる夢を見る・・・。エクトル・ベルリオーズ(1803-69)の代表曲《幻想交響曲》の内容だ。作品の初演がおこなわれたのが1830年だから、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)の《交響曲第9番》(いわゆる《第九》)が初演されてから、わずか6年後のはなし。

 それにしても「破格」という点で、《第九》と《幻想交響曲》は共通している。器楽が主役であるはずの交響曲のクライマックスで、合唱が大活躍を見せるという掟破りの構成の《第九》。片や奇々怪々たる幻の物語を、異例の大編成がもたらす大音響を用いて聴衆に否応なく聴かせようとする《幻想交響曲》。しかも《幻想交響曲》は、やがてベルリオーズ自身のアイディアにより、続編にあたる作品とセットで演奏されるのが望ましいとされるようになった。その作品こそ、1832年に初演された《レリオ、あるいは生への復帰》である。《幻想交響曲》同様の大管弦楽に加え、語り手、男声独唱を含む大合唱が必要とされ、作曲者本人によって「叙情的独白劇」という摩訶不思議な呼び名が与えられている。

 いずれにしても《幻想交響曲》+《レリオ》のセットは、合唱が登場する交響的作品という意味合いにおいて《第九》の衣鉢を受け継ぎながらも、編成や形式(何しろ作曲者に曰く「独白劇」なのだから)に関しては、それを上回る規模を具えている。しかも、普遍的な人類愛を謳い上げる《第九》とは異なり、《レリオ》の場合は、個人的な失恋体験や嫉妬体験を、管弦楽だけでは飽き足らずに合唱さえも用いて表現し尽くそうという狙いだ。ルネッサンスに覚醒した「個」の意識は、18世紀末のフランス革命をきっかけにヨーロッパ中を席巻していったが、ベルリオーズはまさにその申し子に他ならなかった。

「器楽<声楽」という伝統

 それにしても、今しがた書いた「管弦楽のみならず合唱さえをも用いて」という姿勢そのものが、ヨーロッパの歴史から見ればきわめて異例だった。というのも、古来ヨーロッパにおいては、「器楽」と「声楽」とを比べた場合、「声楽」のほうが優れているという考え方が支配的だったからである。

 その理由は、聖書にある。キリスト教・・・さらにその根幹となったユダヤ教・・・における天地創造神話では、神が「光あれ」と言葉を発することによって光が生まれ、その後も神が言葉を発する度に徐々に世界が作られていったとされている。(もっとも人間だけは特例で、最初の人類とされるアダムは神が自らの姿に似せ、手ずから土をこねてそこに息を吹きかけることによって誕生するのだが)。

 ということは、神の姿に似せて作られた人間にとっても、声はきわめて重要な存在であった。また、だからこそキリスト教の力が強かった中世において・・・特に教会では・・・人間の声を用いた「聖歌」が典礼に欠かせない要素となっていったのである。いっぽう「声楽」に比べると、「器楽」は微妙な位置づけだった。神の似姿であるとすれば、人間は神と同様の手を持っているはずだが、その手を使って神が人間を創ったような真似をすることは、神の領域を穢す涜神的な行為と見なされたのである。

 それゆえ、人間が自ら手を用いて道具(instrument)を作ること自体に、何やら後ろめたさが付きまとうようになったのは当然だろう。それは楽器(instrument)を製作することにおいても同様である。・・・というわけで、現在ではキリスト教の象徴的な楽器のように思われているオルガンも、様々な教会に広がってゆくにあたっては紆余曲折があったほど。特にグレゴリオ聖歌に代表される「声楽」を重んじる修道会系の教会では、中世文化が花開き始めた11世紀になってからようやく普及していった、という経緯がある。

重要な位置を占める器楽

 そのように考えると、時代は変わったものである。《第九》にせよ《幻想》+《レリオ》にせよ、今やオーケストラという「器楽」が主役となり、そこにおいて「声楽」は・・・少なくとも曲全体の構成からすると・・・いわば脇役といった位置づけを与えられるようになったのだから。

 それは1つ、交響曲のジャンルにのみとどまらない。伝統的にはあくまで声楽が主体であったはずの教会音楽においてすら、器楽の占める重要度が増しつつあったからだ。その典型こそ、ベルリオーズの《レクイエム》。レクイエムといえば、歌詞は中世に成立したラテン語によるテキストが基本となっている。そしてそこにグレゴリオ聖歌の旋律が付けられ、長年にわたって歌い継がれていった。(特に「怒りの日」の旋律は有名であり、ベルリオーズ自身その一部を、《幻想交響曲》や《レクイエム》に取り入れている。)

 実のところルネッサンス以降になると、ラテン語の歌詞をそのまま用いつつ、音楽だけはそれぞれの時代の作曲家が書いた《レクイエム》が現れ、オーケストラ伴奏が付いたものも見られるようになってゆく。このあたりにも、ルネッサンスがもたらした「個人」や「自由」の目覚めが反映されているといえるが、重要なのは教会音楽である以上、声楽が主、器楽は従といった原則が貫かれていた点だった。

 ところがこの原則も、「個人」や「自由」の考え方が爆発的に成長を見せた18世紀末から19世紀になると、大きく揺らいでゆく。それが証拠にベルリオーズの《レクイエム》では、たしかに合唱の規模も大掛かりだが、それを上回るかのような大音響を誇る大編成のオーケストラが圧倒的な存在感を放っているからだ。そしていわば極限規模の器楽と声楽とが四つに組んで、未曾有の聴覚体験がもたらされてゆく。

巨大編成志向の理由

 それにしてもなぜベルリオーズは、器楽にせよ声楽にせよ、ここまで巨大編成を好んだのか? 1つには、「個人」の意識を過激なまでに具えた人物だったからこそ、そうした意識を巨大な音量や多彩な音色を可能ならしめる大アンサンブルを用いて、これでもかと表現しようとした。じっさいベルリオーズは、その強烈な個性により周囲としばしば軋轢が生じ、自分が世間から理解されない芸術家であると思い込むようになったほどの人物だった。

 だが彼が、世の中から隔絶した存在だったかといえばけっしてそうではない。何しろ《レクイエム》そのものからして、1830年に勃発した七月革命の犠牲者追悼の式典で演奏されるべく、国家からの依頼をきっかけに書かれたという経緯があるほど。(ただし式典の規模が縮小されたため、初演は延期されることとなったのだが。)なお1789年の大革命以来、フランスでは国家的な催しをおこなう度に音楽・・・特に合唱曲・・・を積極的に用い、革命の主体である不特定多数の市民を、「歌」によって1つにすることがおこなわれてきた。

 さらに《レクイエム》が作られた頃といえば、イギリス発の産業革命がいよいよフランスにも上陸し始めた頃である。つまり大量の「もの」が溢れるようになり、それを飽くことなく消費しようとする経済システムが生まれつつあった。またそうしたシステムが、万国博覧会やデパートといった、現在にまで至るイヴェントや商業形態を生み出した。

 このような状況の中、いわば音楽の世界においても大勢の人々が溢れかえらんばかりに集い、巨大な仕掛けの作品を演奏する傾向が見られるようになったのも当然ではなかったか? ベルリオーズは、そのパイオニア的存在に他ならなかった。彼は後年、《レクイエム》の続編ともいえる宗教作品《テ・デウム》を書くが、それが初演されたのは大量消費・大量生産の象徴ともいえるパリ万国博覧会(1855年)でのことだった。

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