JOURNAL

「合唱」が語るヨーロッパ史

第4回:古典派〜その2

西洋クラシック音楽の根幹を成す「合唱」の歴史を振り返る本連載。第4回では、フランス革命が勃発し市民社会が産声を上げるなか、「合唱行進曲」が流行して、ベートーヴェンやシューベルトが活躍する後期古典派を中心に見ていきます。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学教育人間科学部准教授)

 

「合唱行進曲」の時代

 フランス国歌として名高い《ラ・マルセイエーズ》。元はといえば、18世紀末に起きたフランス革命の最中に生まれた。

 たしかに革命の主役である市民たちが団結し、新たな時代へ歩んでゆくにあたって、これほど相応しい曲もなかったろう。現在のように様々なメディアが存在しなかった当時、出身も考え方も異なる不特定多数の市民たちが共同で歩調を合わせるためには、歌の果たす役割が重要だった。彼らは迫り来る敵や困難と戦うべく、野太い声で自らの志気を鼓舞しながら、勇ましく進もうとしたのである。

 フランス革命によって、いわば「合唱行進曲」の時代が始まったといえるかもしれない。じっさい革命の本拠地だったフランスにおいては、王制が倒され、雅な華やかさを旨とする宮廷文化が崩壊するに及んで、それまでとはまったく異なる合唱の潮流が目に見えて明らかになった。それを象徴する作曲家の1人が、フランソワ・ジョセフ=ゴセック(1734-1829)。彼は《ガヴォット》で有名な人物だが、この曲は元々、フランス宮廷文化が最後の光芒を放っていた1786年に作曲されたオペラの中に登場する。そもそも「ガヴォット」自体、宮廷の踊りであったことからも分かるように、ゴセック自身が宮廷文化の影響を色濃く受けた人物だった。

 ところが1789年に革命が勃発すると、ゴセックは方向転換を図る。(逆に言えば革命が激化する中で、旧い宮廷文化に拘り続けるのは非常に危険な行為だった。)そうした最中の1794年に彼が作曲したのが、《共和制の勝利》。ジャンルとしてはオペラに分類されるが、題名の通り、革命によって誕生した共和制を称える内容だ。《ラ・マルセイエーズ》を彷彿させるような「合唱行進曲」が作品のクライマックスを築き、勇ましいリズムとメロディに乗って、市民たちの勝利が熱狂的に歌い上げられる。

ベートーヴェンとナポレオン

 「合唱行進曲」は、やがてフランスだけでなくヨーロッパ各地に広まってゆく。もちろんこれを積極的に迎え入れたのは、古くからの特権階級に押さえつけられてきた市民の側。フランスとは異なって、たとえ君主制が維持された地域においても・・・いやそうであったからこそ・・・、「合唱行進曲」はそこかしこで大流行を見せていった。

 この「合唱行進曲」により広い意味を持たせた代表格が、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)だろう。典型的作品が、1824年に初演された《交響曲第9番》(《第九》)の最終楽章。管弦楽を基本とする交響曲のクライマックスに人の声が登場するという異例さもさりながら、有名な「歓喜の歌」の主題をはじめとして行進曲を彷彿させる箇所が非常に多いのが特徴だ。しかもそのような行進曲調の音楽に合わせて歌われる歌詞はといえば、例えば《ラ・マルセイエーズ》のごとく「敵をやっつけろ!」といった具合に直截的な戦闘心を煽るのではなく、兄弟愛を歌い上げる普遍性を前面に押し出したものとなっている。

 そうでなくても、ベートーヴェンは《第九》に先立つ16年前、《ピアノ独奏・合唱・管弦楽のための幻想曲》(《合唱幻想曲》)を作曲し、やがて《第九》で用いられることになるメロディに乗せて、高らかな芸術賛美を合唱に歌わせた。もちろんこの作品も、音楽面では「合唱行進曲」の性格を濃厚に湛えていることは言うまでもないが、もはや戦闘モード一色にとどまらない点が特徴的である。

 当時は、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)が「自由・平等・友愛」のフランス革命精神の伝播を錦の御旗に、ヨーロッパ各地に軍隊を進めていた最中である。そのような状況の下、自ら市民階級の出であるという自負に強烈なまでに貫かれ、革命精神そのものに深く傾倒していたベートーヴェンが、行進曲の調べを合唱に用いながらも、そこに自分なりの世界観を投影させていったのはごく当然ではなかったか?

保守反動体制の下で

 ところが当のナポレオンその人に、ベートーヴェンが深い失望を覚えたのは有名な話。彼にとって実際のナポレオンは、革命精神を広める英雄などではなく、征服欲と名誉欲に突き動かされた侵略者であることが明らかになったためである。しかもナポレオンは、1812年のロシア戦線における敗北をきかっけに失脚する。彼が去った後のヨーロッパでは、反ナポレオン=反革命精神を掲げる保守反動体制が確立された。

 そうした中でベートーヴェンは、政治的な世直しを声高に唱えるのではなく、より普遍的な内容を謳う音楽世界へと傾かざるをえなかったともいえる。《第九》と同時期に書かれた《荘厳ミサ曲》においては、彼のトレードマークともいえる行進曲調の曲想は後退し、ひたすら内面を見つめるかのような世界が広がってゆく。しかもこの作品、カトリック教会の典礼で歌われるミサのテキストに基づきながらも、1時間30分にも及ぼうかという長大な演奏時間を要することや、部分的な初演が《第九》初演と同じ演奏会でおこなわれたことからも分かるように、演奏会で上演されるべき瞑想的作品として意図されている。

 ベートーヴェンを深く尊敬していたフランツ・シューベルト(1797-1828)も、若い頃から多くの宗教曲を書いているが、晩年の1828年に作曲された《ミサ曲第6番》は、いわば《荘厳ミサ曲》の世界を継承した作品といえよう。たとえ曲想が激しく盛り上がる箇所においてすら、そこで合唱が勇壮な行進曲を吠えることはない。むしろある程度の人数の合唱団員が存在するにもかかわらず、彼らは生と死の意味について静かに想いを巡らせるごとく、どこまでも深く沈潜した歌を聴かせてゆく。ほんの数十年前、あれほどまでにヨーロッパを席巻した「合唱行進曲」の熱狂的ブームが、一挙に褪せたかのように。

当局相手の頭脳作戦

 では、保守反動体制の中で、市民たちは完全に息を潜めるしかなかったのか? けっしてそうではない。彼らはしたたかに統制の網をかいくぐり、密かな自己主張をおこない続けたのである。

 その一例が男声合唱。実のところ19世紀前半には、特にドイツ語圏を中心として、幾つもの男声合唱団や男声合唱協会が設立されている。抑圧された政治的なエネルギーを歌で発散させようという狙いもさりながら、「歌う」ことを口実に集まった上で、政治的な話をあくまで目立たぬよう仲間内で語り合うという目的もあった。

 もちろんそうした動きに当局も眼を光らせないわけではなかった。ただし、あくまでも音楽活動が主たる目的に掲げられている以上、それを無碍に取り締まることも不可能だった。また当局の側としても、市民が過度の不満を溜め込んだ末に革命などを起こさぬよう、音楽をはじめとするエンタテイメントを通じて彼らのストレスを発散させるべく、ある程度のことには目をつむろうとした。

 こうして、次々と誕生を遂げていった男声合唱団のために、シューベルトをはじめ多くの作曲家が曲を書くようになる。もちろん表面的には、酒宴をはじめとする男同士の愉しい集いや、自然の風景を描いた人畜無害なものばかり。政治的な匂いのかけらもない。(そもそも政治的な問題に触れるような歌は、当局からの厳しい検閲により、上演禁止・出版禁止に追い込まれることは火を見るよりも明らかだった。)

 だが、表向きにはお上の政策に従うようなふりを見せるというのが、市民たちにとっての戦略だった。フランス革命を機に目覚めた自由への情熱は、もはやどのような力を以てしても葬り去ることができなかった。男声合唱の響きには、政治的な冬の時代に耐えながら、再び革命思想が現実のものとなる日を夢見ていた市民階級の汲めど尽きせぬ憧れと、当局相手のしたたかなまでの頭脳作戦が、そこかしこで織り込まれている。

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