JOURNAL

「合唱」が語るヨーロッパ史

第2回:バロック

クラシック音楽の根幹を成す「合唱」の歴史について考える本連載。第1回「中世からルネッサンスまで」に続く第2回では、J.S.バッハらが活躍する「バロック時代」にスポットをあてる。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学教育人間科学部准教授)

 

新たな時代の讃美歌

 1517年、ヨーロッパ史に刻まれる事件が勃発する。「宗教改革」の発端となった出来事で、カトリックの神学者だったドイツ出身のマルティン・ルター(1483-1546)が、時のマインツ大司教に『95ヵ条の論題』を送りつけたのだ。

 ルター本人としては、様々な面で問題や矛盾を抱えていたカトリック教会を改革したい、という願いゆえの行動だった。ところが、一介の神学者にすぎない彼がこうした申し立てをおこなったことは、教会の上層部から見れば出過ぎた行為だった。というわけでルターはカトリックから破門され、さらには生命の危険にさえ晒されるものの、ドイツ東部のさる地方領主に匿われ、ここから新たなキリスト教の教派=ルター派が誕生していった......。

 これもまた、当シリーズの第1回に書いた「ルネッサンス」を象徴する出来事といえるだろう。カトリックがヨーロッパの隅々にまで浸透していた中世に代わり、新たな価値観に目覚めた人々が頭角を現してきたのがルネッサンスであるならば、宗教改革もまた伝統的に一枚岩だったカトリックを内部から揺るがし、やがてヨーロッパをカトリックvs.プロテスタント(この時代カトリックに抵抗して立ち上げられた教派の総称で、ルター派もそこに含まれる)へと二分したのだから。

 じっさいルターは、カトリックにはなかった様々な挑戦をおこなってゆく。その典型が、聖書のドイツ語訳。かつて聖書はラテン語で書かれるのが当たり前であり、そのラテン語を読めるのは聖職者をはじめとするエリートだけだった。だがルターは、一般の信徒個々人が聖職者の言いなりになるのではなく、自らの意志によって神と向き合って生きてゆくことこそ重要である、という考え方をしていた。そこで彼らの日常語であるドイツ語に聖書を翻訳し、それを読んだ(あるいは聴いた)人々が、キリスト教の根幹である聖書の言葉を直接受け取ることができるようにしたのだった。

 また、礼拝においても改革がおこなわれた。その一例が、讃美歌の導入である。カトリックでは中世以来の伝統を引き継ぎ、ラテン語の歌詞によるグレゴリオ聖歌を中心とした宗教曲を、聖職者や聖歌隊といった一握りの人々が礼拝の場で歌うのが普通だった。ところがルターは、信徒一人一人がみずからの口で神を賛美するべきであるという考えに立ち、ドイツ語の歌詞による、しかも一般の人々に親しみやすいメロディの讃美歌を礼拝で用いていった。

 こうして生まれたルター派の讃美歌が、「コラール (Choral)」と呼ばれるもの。しかもそれらは、グレゴリオ聖歌のような単線律ではなく、幾つかのパートに分かれており、各々のパートが寄り集まることによって美しいハーモニーが現れることを特徴としている。これもまた、中世のカトリックのような一元的な価値観ではなく、ルネッサンスを経て花開いた多様な価値観の中に、立場や出自の異なる個々人が声を合わせることで新たな改革に乗り出してゆこうとする、理想に燃える姿勢から出たものだ。

 なおこのコラールだが、後にヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)等の作曲家によって、ルター派の礼拝で演奏される宗教曲(カンタータや受難曲)として、複雑なアレンジが施されてゆく。それでも実際の礼拝においては、訓練を受けた聖歌隊がこうした特別な宗教曲を歌うかたわら、その基となったコラール登場の場面になると、教会に集った会衆がともに声を合わせて合唱をするということがおこなわれていたようだ。一握りの権威の前に黙って頭を垂れ、その命令通りに操られるのではなく、みずからが主体的に動き、新たな世界を創ってゆくことができるのだという希望が、礼拝堂に響き渡るコラールの中には溢れんばかりに輝いていた。

フーガの社会実験

 ところでバッハといえば、「フーガ」の代名詞のような存在だ。フーガとは簡単に言ってしまえば、同じ旋律が調を変え、場合によっては形も変え、複数のパートに次々と現れてゆく楽曲形式のこと。こうなると、どのパートが主役でどのパートが脇役でということではなく、全てのパートがそれぞれ欠かすことのできない重要な役割を担いながら、巨大な音の伽藍を築き上げてゆくという次第だ。

 もちろんフーガは器楽曲に用いられる場合も少なくないが、合唱に用いられた場合に大きな効果を発揮する。人間の声というメディアを通じて、ルネッサンス以降芽生えてきた多様な価値観に基づいた個々人の存在の重みというものが、よりはっきりと分かるからだ。だが実のところフーガは、ルネッサンスの次に来る文化潮流であるバロックの時代に大きく興隆した。これは一体どうしたことか?

 実のところ、ルネッサンスを機に目覚め始めた個人の意識は、新たな価値の転換をもたらすかたわら、それぞれの意見の食い違いから生じる諍いも生む原因にもなった。とりわけそれが顕著に現れたのが、カトリックとプロテスタントの対立であって、それは一つ宗教界の問題にとどまらず世俗の諸侯を巻き込み、やがてヨーロッパの様々な領主たちが陰になり日向になり、血みどろの紛争を繰り返す事態にまで発展してゆく。

 その典型が「三十年戦争」と呼ばれる戦いであって、1618年から48年までの30年間にわたって幾多の紛争が繰り返された。そして戦争の結果から、あることを学んだ少なからぬ数の君主たちが生まれることとなった。

 実のところ中世以来、ヨーロッパは地方分権の政治体制であり、大中小の領地を持つ支配者たちをカトリック教会のような一大権威が背後から束ねている、という構図が続いていた。しかし当のカトリックが弱体化してしまった今、地方分権体制を続けていたのでは、いつまた大規模な紛争が起こるか分からない。そこで登場してきたのが、様々な支配者たちを上から強固な力で統率する中央集権的な君主である。これがいわゆる「絶対君主」であり、彼らの統治方法や理念が「絶対主義」ということになるが、彼らはありとあらゆる手段を用いて、自分が神にも等しい存在であることを世に知らしめようとした。

 その一例が、息を呑むような華やかさをこれでもかと強調すること。建造物では、フランス王のルイ14世(1638-1715)がパリ郊外の野原に作らせたヴェルサイユ宮殿が代表格といえるだろう。あるいは音楽においては、「総合芸術」として多種多様な芸術領域の匠たちを動員してはじめて可能となるようなオペラも、君主が自らの絶大さを示すための絶好の手段だった。そしてこのような文化や芸術の潮流を指して、「バロック」という。

 そんな状況の中、バロック時代にはフーガが大流行した。それは、既にそこかしこで目覚め始めた個人の意識を各パートが表現しながらも、全体がばらばらになるどころか、一つの壮大な高みに向けて煉瓦を積み上げてゆく作業にも似ている。逆に言えばフーガはそこまで、絶対君主が君臨することとなったバロックの精神に則ったものだった。

 というわけで、バロック時代を代表する音楽家のバッハも、あるいは彼と同じ年にドイツに生まれながらもイギリスで活躍することとなったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)も、とりわけ合唱曲の大作には必ずフーガを取り入れた。個人の覚醒がかえって大きな混乱を社会にもたらしてしまったという現実が重く圧し掛かる中、各人の存在意義を主張しながらも、それを全体の安定のために奉仕させるという壮大な社会実験。それは壮麗なフーガとなって結実し、ルネッサンスが終焉した後のヨーロッパに花開いた。

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