JOURNAL
ハルサイジャーナル
上野で見つける江戸
第5回 寛永寺から谷中へ 江戸が面で残る希少なエリア
文・香原斗志(音楽評論家・歴史評論家)
東京・春・音楽祭の拠点、上野公園とその周辺は、東京でも最大級の文化ゾーンだが、実は、江戸文化の名残を味わううえでも同じことがいえる。上野は最高の音楽と最高の歴史遺産をともに味わえる贅沢なエリア。訪れるからには、ともに体験しなければもったいない。そこで5回にわたって、上野公園の歴史と、そこに残る珠玉の江戸遺産を紹介したい。
凝縮した寛永寺の歴史空間
すでに書いてきたけれど、いま上野の山を歩くということは、かつての寛永寺の境内を歩くこととイコールだ。東京・春・音楽祭の会場なら東京文化会館はいうまでもなく、東京都美術館も、国立科学博物館も、上野の森美術館も、旧東京音楽学校奏楽堂も、東京国立博物館も、東京芸術大学奏楽堂も、明治政府に接収されるまで寛永寺の境内だった場所に建っている。

筆者撮影/川越喜多院の本地堂を移築した寛永寺根本中堂
では、いまは根本中堂がないのかといえば、そんなことはない。前回めぐった徳川将軍家霊廟の西側、東京国立博物館平成館の裏手のほうに、根本中堂が建っている。その地はかつて寛永寺の36の子院のひとつ、大慈院があった場所で、そこに明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂を移築して、新たな根本中堂にしたのである。
だから、江戸時代から上野に建っていた建物ではないが、喜多院の本地堂は、三代将軍徳川家光が寛永15年(1638)に建てた由緒正しい建築で、移築する際、寛永寺の旧本地堂の用材も使って再建している。したがって、この根本中堂も東京に残る江戸建築には違いない。

筆者撮影/この書院の奥に慶喜が蟄居した葵の間
こうして2カ月ほど、慶喜が過ごした大慈院の2間、10畳の主座敷と8畳の次の間が、葵の間としていまも残っている。数寄屋風を加味した上質な座敷で、以前はもう少し北にあったが、根本中堂寄りに若干移動したという。
普段は非公開だが、最近まで徳川将軍家霊廟や根本中堂と一緒に、申込制の特別参拝が行われていた。コロナ禍が収束すれば再開されるかもしれない。
谷中に残る江戸情緒と江戸建築の数々
江戸時代は寛永寺の境内の北側は、そのまま谷中の寺町につながっていた。この一帯はいまも、台東区谷中から荒川区西日暮里3丁目にかけて、ほぼ江戸時代のままの町割りが残り、そこに70余りの寺院が連なっている。
事実、谷中に寺院が建ちはじめたのは寛永寺の創建後で、その後、幕府主導で日本橋や神田などからここに次々と寺院が移転し、江戸の3分の2が焦土と化した明暦3年(1657)の大火ののち、その流れに拍車がかかった。こうして寺院が集まった地域が、関東大震災後の火災も太平洋戦争の戦火も奇跡的に免れ、いまも江戸情緒が点ではなく面として色濃く残っている。

筆者撮影/谷中の象徴、観音寺の築地塀
玉林寺(本堂)、本寿寺(本堂、祖師堂)、本光寺(本堂)、妙行寺(本堂)、蓮華寺(本堂、山門)、本妙院(本堂)、妙円寺(本堂)、立善寺(本堂、山門)、観音寺(築地塀)、経王寺(山門)、延命院(七面堂、庫裏)、養福寺(仁王門)。
このなかで江戸につながる景観という点で必見なのが、観音寺の築地塀だ。瓦をはさんで練り土を積み上げた塀は幕末に建てられ、国指定の有形文化財に登録されている。また、日暮里駅北口に程近い経王寺の武家屋敷風の山門は、敗走した彰義隊士をかくまったために新政府軍から攻撃された際の銃弾の痕が、いまも残っている。
東京文化会館から北に向かって1キロ余り歩けば谷中である。上野から谷中にかけて、音楽ののちに江戸情緒に向かうことも、江戸情緒に浸ってから音楽を味わうこともできる。順番はどちらでもいいが、こんなふうに文化を複合的に味わえるエリアは、東京広しといえども上野のほかにない。

新政府軍の銃弾の痕が残る経王寺の山門

谷中の蓮華寺本堂は文政年間の建築

一説には寛永年間(1624-44)の建築という谷中の玉林寺本堂
香原斗志/かはら・とし
音楽評論家、歴史評論家。神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、専攻は歴史学。日本ロッシーニ協会運営委員。著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。毎日新聞クラシックナビに「イタリア・オペラ名歌手カタログ」、GQ JAPAN Webに「オペラは男と女の教科書だ」連載中。歴史評論家としては近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。