JOURNAL

上野で見つける江戸

第1回 上野公園は東京の比叡山だった!

第1回 上野公園は東京の比叡山だった!

文・香原斗志(音楽評論家・歴史評論家)

 東京・春・音楽祭の拠点、上野公園とその周辺は、東京でも最大級の文化ゾーンだが、実は、江戸文化の名残を味わううえでも同じことがいえる。上野は最高の音楽と最高の歴史遺産をともに味わえる贅沢なエリア。訪れるからには、ともに体験しなければもったいない。そこで5回にわたって、上野公園とその周辺の歴史と、そこに残る珠玉の江戸遺産を紹介したい。

筆者撮影/上野駅も北東に延びる道も右下の線路も寛永寺の境内だった

寛永寺の敷地面積は上野公園の2倍だった
 上野公園は明治6年(1873)3月、日本初の公園のひとつとして誕生した。明治10年、明治政府が殖産興業の景気づけに、ここで第1回内国勧業博覧会を開催すると、全国から8万4000点の品々が集まり、46万人もが詰めかけたという。その後、第2回、第3回も上野公園で行われた。面積が53.8ヘクタールの広大な公園だからこそ、大規模な博覧会をたびたび開催できたのだ。

 では、公園になる以前、広い敷地はなにに利用されていたか。明治を迎えるまで、上野の山には徳川将軍家の菩提寺、寛永寺があった。「いまもある」と反論されそうだが、かつては規模が違った。寛永寺の敷地は最盛期には30万5000坪、つまり100ヘクタールを超え、いまの上野公園の2倍近くもあったのだ。

 JR上野駅や線路はもちろん、線路の東側の入谷口通りまで寺域がおよび、西は谷中にかなり食いこんでいた。ちなみに入谷口通りの東側、および首都高速に沿って御徒町駅方面にかけては、江戸城や将軍を護衛する下級の御家人で、騎乗が許されず徒歩で仕えた「御徒」たちの住居が並んでいた。御徒町の由来である。

 さて、寛永寺を開山した天海僧正は、徳川家康、秀忠、家光と3代の将軍から篤く信頼され、明智光秀が生きのびて天海になった、という伝説もある人物。寛永20年(1643)年に108歳で亡くなったと伝えられる。この天海が江戸における天台宗の総本山をつくりたいと望み、秀忠が寄進したのが上野の山だった。


筆者撮影/大噴水の位置に根本中堂が、その奥の東京国立博物館の位置に本坊があった

比叡山延暦寺の江戸版
 天海は寛永寺になにを思い描いていたか。それはかなり明快だ。まず創建時の元号「寛永」を、わざわざ勅許を得て寺号にしている。「延暦」年間に創建された天台宗の総本山、延暦寺にならったのだ。山号の「東叡山」も「東の比叡山」という意味で、天海は比叡山延暦寺を江戸に再現しようとしたのである。

 また、天海が意識した比叡山は京都御所の鬼門(東北)に位置する。延暦寺には陰陽道で邪気が出入りする方角とされる鬼門を封じる役割があった。上野の山も江戸城の鬼門の方角にあるので、「東の延暦寺」を興したい天海にはうってつけの場所だった。

 江戸城の鬼門を守るという考えには、幕府も賛成するしかなかった。それに、こうして江戸が京都になぞらえられれば、伝統が足りない江戸の町に京都の権威を借りることができる。上野の山の西南に広がる不忍池は、比叡山麓の琵琶湖になぞらえられた。

 寛永2年(1625)11月、いま東京国立博物館がある場所に、将軍が鷹狩りなどに使った高輪御殿を移築して本坊が完成し、それをもって寛永寺の創建とされる。そして5代将軍綱吉の時代の元禄11年(1698)、いま大噴水がある場所に、本堂に当たる壮大な根本中堂が完成した。


筆者撮影/新政府軍の銃弾の痕が無数に残る寛永寺の旧黒門(現在、荒川区南千住の円通寺に移されている)

上野戦争の犠牲者へのレクイエム
 家光の葬儀が行われてから徳川将軍家の菩提寺と認められ、4代家綱から13代家定まで6人の将軍の墓所が置かれ、寛永寺は江戸時代を通して最も栄えた寺院だった。それにしては痕跡が少ないのはなぜか。

 慶応4年(1868)、新政府に異を唱える彰義隊は4月11日に江戸城が無血開城したのちも、将軍家霊廟守護を名目に寛永寺境内にとどまっていたため、新政府は武力討伐を決定した。5月15日、大村益次郎率いる新政府軍は上野の山を包囲して集中砲火。200数十名の彰義隊はわずか半日で全滅し、寛永寺もほとんどの伽藍が焼失するという壊滅的な被害を蒙った。

 その後、寛永寺は境内の大半を明治政府に接収され、上野公園になった。明治政府は、上野から「賊軍」の菩提寺というイメージを払拭するためにも、公園化し、内国勧業博覧会を開催したのだろう。しかし、江戸の仏教文化の聖地が、東京の文化の聖地として機能し続けている事実に、歴史の好ましい連続性が感じられないだろうか。また、この地で奏される質の高い音楽は、上野戦争の犠牲者たちへのレクイエムになっているに違いない。


 さて、次回はいまも残る寛永寺を歩いてみたい。


香原斗志/かはら・とし

音楽評論家、歴史評論家。神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、専攻は歴史学。日本ロッシーニ協会運営委員。著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。毎日新聞クラシックナビに「イタリア・オペラ名歌手カタログ」、GQ JAPAN Webに「オペラは男と女の教科書だ」連載中。歴史評論家としては近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。

関連記事

Copyrighted Image