JOURNAL
ハルサイジャーナル
上野で見つける江戸
第4回 上野の山に残る武家の都市を象徴する貴重な門の数々
文・香原斗志(音楽評論家・歴史評論家)
東京・春・音楽祭の拠点、上野公園とその周辺は、東京でも最大級の文化ゾーンだが、実は、江戸文化の名残を味わううえでも同じことがいえる。上野は最高の音楽と最高の歴史遺産をともに味わえる贅沢なエリア。訪れるからには、ともに体験しなければもったいない。そこで5回にわたって、上野公園の歴史と、そこに残る珠玉の江戸遺産を紹介したい。
最高の格式を誇る大名屋敷の門
江戸は支配階級である武士が異様なまでに多い都市だった。江戸時代の人口に占める武士の比率は7%程度で、天下の台所と称された商人の町、大坂では2%にすぎなかったと推定されている。これに対し、18世紀には人口120万人を擁する世界最大級の都市に発展していた江戸では、半数の60万人ほどが武士だったという。
大名は領国と江戸との間を1年交代で行き来させられ、正室と嫡子は江戸住まいが義務づけられていたから、家臣の多くも江戸に住んだ。また、幕臣の旗本と御家人も江戸に集住していたので、まさに武士だらけの都市だったのだ。
このため、江戸の面積の約7割は武家地で、大名屋敷にかぎっても5割以上を占めていた。もっとも、上野の山は大半が寛永寺の境内だったわけだが、たとえば、不忍池の対岸には越後高田藩榊原家の中屋敷(現・旧岩崎邸庭園)や加賀金沢藩前田家の上屋敷(現・東京大学)などの広大な敷地が広がり、都営大江戸線の新御徒町駅周辺にも大名屋敷が並んでいた。
それにしては、大名屋敷のほとんどは、残念ながら失われてしまった。小石川後楽園や六義園など庭園がよく保存されているケースはあっても、建物はほとんど残っていない。だが、例外もあり、そのいくつかは上野にあるのだ。

最高の格式を誇る鳥取藩池田家上屋敷の表門
江戸末期の建築と考えられているが、池田家の上屋敷がここにあったわけではない。もともとは現在の帝国劇場のあたりに建っていて、明治25年(1892)に高輪台の東宮御所に移築され、戦後、東博の屋外展示としてここに移築された。

福岡藩黒田家上屋敷の御殿の屋根を飾っていた鬼瓦
徳川家の威勢をしのばせる将軍霊廟の門
道路からでもその威容を堪能できるが、東博に入城したときは、ぜひ内側からも眺めたい。その際、門に向って左側に置かれている大きな鬼瓦も見落とさないでほしい。これは霞が関にある現在の外務省の地にあった福岡藩黒田家上屋敷の御殿を飾っていた鬼瓦だ。こんなに巨大な鬼瓦が屋根に乗る御殿があちこちに建っていたのが、かつての江戸だった。
大名屋敷の門をもうひとつ見ておこう。池田家表門の前の道路を上野駅公園口方向に向かい、東京国立博物館の敷地が途切れたところで左折し、200メートル余り歩くと、右側に寛永寺の支院のひとつ、林光院がある。その表門である優美な唐門は、徳島藩蜂須賀家の屋敷から移築されたと伝えられている。
林光院を右手に見ながらそのまま進み、寛永寺の墓地に突き当たったら左折して少し歩くと、右側に少し趣の違う門が建っている。厳有院霊廟の勅額門だ。厳有院とは四代将軍徳川家綱の法号である。以前にも書いたが、寛永寺は三代将軍家光の葬儀が行われてから、事実上、芝の増上寺と並んで徳川将軍家の菩提寺となり、家綱にはじまって五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定と6人の将軍が葬られている。

林光院の山門は徳島藩蜂須賀家の屋敷から移築された

厳有院(四代将軍家綱)の霊廟の勅額門

常憲院(五代将軍綱吉)の霊廟の勅額門
徳川将軍を頂点とした武家社会へ、当時の遺構を眺めながら思いを馳せることができる。東京広しといえども、それができる地域は上野しかない。
また、将軍家霊廟は長い間、観ることができなかったが、近年は事前に寛永寺に申し込めば、戦災を免れた6人の将軍の宝塔を拝観できる。いまは感染拡大防止の観点から休止中のようだが、楽しみを少し先にとっておくのも悪くない。
香原斗志/かはら・とし
音楽評論家、歴史評論家。神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、専攻は歴史学。日本ロッシーニ協会運営委員。著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。毎日新聞クラシックナビに「イタリア・オペラ名歌手カタログ」、GQ JAPAN Webに「オペラは男と女の教科書だ」連載中。歴史評論家としては近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。