JOURNAL

The 20th Anniversary

20歳の頃 ~20名の大作曲家たちのエピソードをご紹介~

第4回

上野の山を彩る“桜の季節の風物詩”「東京・春・音楽祭」が20回目を迎えます。人間に例えてみれば、20歳は大人の仲間入り。世間一般に“個人”として認められる人生の大きな節目です。クラシックの世界に鑑みてみても、20歳の頃は、過去の偉大な作曲家たちが人生の節目を迎えつつある時期であったことが伺えます。というわけで、第20回を迎える「東京・春・音楽祭」に関連する作曲家たちの中から20人をピックアップして、彼らの「20歳の頃」を紐解いてみたいと思います。若き日の人間味あふれる姿を知ることによって、彼らが遺した音楽の素晴らしさもきっと“20倍”にも膨らむことでしょう。

文・田中 泰

●Vol.13:R.シュトラウス(1864-1949)

〜音楽とともに一般教養も身に着けた、才能あふれる20歳の頃〜

音楽家の父と教養豊かな母のもとに生まれたR.シュトラウスは、6歳で作曲を開始し、12歳で《祝典行進曲》を発表。16歳で作曲した《交響曲ニ短調》をブラームスに褒められるなど、モーツァルトに匹敵する才能を発揮します。その後、一般教養を身につけるためにミュンヘン大学哲学科に進学。19歳の年にマイニンゲン宮廷楽長ハンス・フォン・ビューロー(1830-90)に出会います。20歳の年に、同団のために《13の吹奏楽器のための組曲 op.4》を作曲し、自らの指揮で初演。高い評価を得たことによって、翌年同団補助指揮者となり、その2ヶ月後にはビューローの後をついで音楽監督に就任。音楽家としての大きな足場を確立します。まさに20歳の頃の出会いこそが人生を左右するという典型です。

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●Vol.14:ラフマニノフ(1873-1943)

〜圧倒的な才能の誕生にロシア中が歓喜した20歳の頃〜

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を卒業したラフマニノフは、翌年オペラ《アレコ》を作曲し、「大金メダル」を受賞して同音楽院作曲科も卒業。将来を嘱望され、ロシア音楽界の寵児となったラフマニノフは、さながらアイドルのような20歳の頃を過ごします。ボリショイ劇場での《アレコ》初演を筆頭に、《2台のピアノのための幻想的絵画曲第1番》や《ヴァイオリンとピアノのための2つの小品》に、チャイコフスキーの死を悼んだ《悲しみの三重奏曲》を作曲。さらには、指揮者・ピアニストとしての活躍ぶりは縦横無尽。その後やってくる《交響曲第1番》の失敗による神経衰弱(24歳)や、ロシア革命による亡命(44歳)などの大きな挫折は、まだ片鱗すらも感じられない希望に満ちた時代だったようです。

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●Vol.15:シェーンベルク(1874-1951)

〜友人ツィムリンスキーの“推し”によって音楽の道を選んだ頃〜

“西洋音楽の革命者”と呼ばれるシェーンベルクは、音楽を嗜むユダヤ人の中流家庭に生まれています。しかし、父の死によって家計は困窮。当時17歳のシェーンベルクは、通っていた実業学校を中退し、銀行に勤め始めたのです。しかしその銀行が倒産したために作曲に専念。小さな劇場で指揮者の職に就いた後、音楽学校の教師をしながら曲を書き続けていきます。まさに生活のために音楽を始めたのですからびっくりです。その彼に音楽へ進む決意をさせたのが、友人のツィムリンスキー(1871-1942)でした。シェーンベルクの才能を高く評価していたツィムリンスキーの助力によって作品を演奏する機会を得、さらには彼の妹と結婚することになるのですから友人は大切です。初期の代表作《グレの歌》を手掛け始めたのも20歳の頃です。

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●Vol.16:ストラヴィンスキー(1882-1971)

〜今もありがちな“しょうもない学生”だった20歳の頃〜

“20世紀最大の作曲家”と讃えられるストラヴィンスキーは、その幼少期に音楽的才能を見せることがなかったどころか、本格的に音楽に取り組みだしたのが20歳の頃からだという事実に愕然とします。両親が不安定な音楽家になることを望まなかったために、20歳にしてペテルスブルク大学の法科に進学したストラヴィンスキーは、今もありがちな、在籍しているだけのしょうもない学生でした。しかし、そこにリムスキー=コルサコフの息子がいたのが幸いします。彼を通じて巨匠のレッスンを受けることになったことで人生が変わりますが、その巨匠ですら、ストラヴィンスキーの能力を疑っていたフシがあるのですから人生はわからないものです。その後ロシアバレエ団の主催者ディアギレフに見込まれて、バレエ《火の鳥》を大成功させたのが1910年28歳の年。まさに遅咲きの作曲家の筆頭です。

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田中泰(音楽ジャーナリスト/プロデューサー)

1988年「ぴあ」入社以来一貫してクラシックジャンルを担当。2008年「スプートニク」を設立して独立。「家庭画報web(名曲物語365)」「アプリ版ぴあ(クラシック新発見)」などの連載や、J-WAVE「モーニングクラシック」のナビゲーター、JAL機内クラシックチャンネルの構成などを通じて、一般の人々へのクラシック音楽の普及に尽力。

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