JOURNAL

連載《パルジファル》講座

~《パルジファル》をもっと楽しむために vol.1

4回に亘り、音楽ジャーナリストの宮嶋 極氏による、ワーグナー:《パルジファル》について深く掘り下げたコラムをお届けします。初回は、来春の東京春祭版《パルジファル》の聴きどころ、そしてストーリーや音楽の魅力についてご紹介します。

文・宮嶋 極(音楽ジャーナリスト)

東京春祭版《パルジファル》(演奏会形式)とは!?

「東京春祭ワーグナー・シリーズ」の第一弾、《パルジファル》

 「東京春祭ワーグナー・シリーズ」は、「東京・春・音楽祭」が2010年からスタートさせるワーグナーの主要作品を毎年1作ずつ演奏会形式で上演していくプロジェクト。その第一弾として、舞台神聖祝典劇《バルジファル》の公演が4月2日、4日の両日、上野の東京文化会館で行われる。

《パルジファル》は、ヨーロッパでは毎年イースター(復活祭)の季節になると、主要歌劇場で必ず上演される比較的身近な作品との位置付けがなされている。ところが、わが国ではオペラ・ファンが"生"の《パルジファル》に接することが出来る機会はとても少ないのが現実だ。東京におけるフルステージ形式での最近の上演は、2009年5月の東京国際芸術協会・荒川オペラ劇場主催の公演、そして、2005年11月の飯守泰次郎指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団によるオーケストラル・オペラが挙げられる。その前は2002年11月、ゲルト・アルブレヒト指揮、読売日本交響楽団が同団創立40周年の記念企画として開催したフルステージ上演。さらにその前となると1989年10月~11月のウィーン国立歌劇場の来日公演となり、音楽過密都市・東京においてですら21世紀に入ってからの全曲演奏は、3企画7公演しかなかったことになる。ちなみに2000年10月には関西二期会が飯守の指揮で全3幕を上演している。

日本では取り上げられる機会が少ない作品だけに来年、東京・春・音楽祭で全3幕の一挙演奏が実現することは、ワグネリアンに限らず、一般のオペラ・音楽ファンにとっても貴重な機会となるはずだ。

《パルジファル》の本当の魅力に触れられる「演奏会形式」

 今回は、演出はもちろん舞台装置などを一切使わない演奏会形式上演だが、作品そのものの魅力や真価を味わうにはかえって好都合かもしれない。それは昨今のオペラ上演(特にドイツ語圏で)は演出主導で大胆な読み替えが行われ、作品本来の意味合いや音楽的な魅力を十分堪能できないケースがままあるからだ。それはワーグナー作品上演の聖地とされるバイロイト音楽祭においてですら例外ではない。いや、むしろバイロイトはその急先鋒なのかもしれない。例えば、2004年にプレミエ上演されたクリストフ・シュリンゲンジーフ演出、ピエール・ブーレーズ指揮のプロダクション。舞台上はフェンスで囲まれた難民キャンプかゴミの山のような装置で埋め尽くされ、それがターンテーブルで回転しながら物語が進行する。第2幕の終盤、パルジファルに破れたクリングゾルが、ロケットに乗ってその場を脱出。上演中にもかかわらず会場からは失笑が漏れる始末。さらに第3幕、「聖金曜日の奇跡」のバックには、ウサギの死体が次第に腐敗して朽ちていく動画が延々と流される。そこにはワーグナーの書いたト書きの要求はまったく存在せず、あまりにも奇抜な視覚情報の洪水に気をとられ、出演者の歌唱や演技、ブーレーズと祝祭管弦楽団が紡ぎ出す音楽などがまったく印象に残らなかった。このため筆者は翌年、再度この演目を鑑賞した折には、音楽的に重要な場面に差し掛かると目を瞑って努めて舞台を見ないようにしなければならなかったほどだった。

 説明がやや長くなってしまったが、こうした現象は程度の差こそあれヨーロッパではよくあることで、事前の"予習"をある程度しておけば、今は演奏会形式の方が、《パルジファル》の本来の魅力に触れられる可能性も高いわけだ。

名匠ウルフ・シルマーの棒と重厚なサウンド「N響」、実力派ワーグナー歌手の共演

 その一方で、演奏会形式では聴衆が音楽に集中する分だけ演奏の質が問われるのは避けられない。今回、指揮を担当するのはワーグナーやリヒャルト・シュトラウスを得意としウィーン国立歌劇場やザルツブルク音楽祭、ミラノ・スカラ座、ベルリン・ドイツ・オペラなどの檜舞台で活躍中のウルフ・シルマー。彼はオペラ劇場を中心にキャリアを積み上げてきただけあって、キメ細やかにオーケストラをコントロールしながら、それを舞台上の歌唱や演技と巧みにシンクロさせて、起伏に富んだ劇空間を創造する手腕に長けた名匠。シルマーの練達の棒がNHK交響楽団から豊かなワーグナー・サウンドを導き出してくれるに違いない。

 さらにN響のワーグナーといえば新国立劇場で2001年から1年1作ずつ新制作上演されたいわゆる"トーキョー・リング"《ジークフリート》と《神々の黄昏》で、重厚かつ安定感ある演奏を披露し高評価を得たことも記憶に新しい。ホルスト・シュタイン、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、オトマール・スウィトナーら本場のワーグナー指揮者と長年に亘って共同作業を続けてきたためだろうか、N響のサウンドや響きの作られ方がワーグナーの作品と極めて相性が良いと感じるのは筆者だけではないはすだ。今年4月の定期公演でもエド・デ・ワールトの指揮で、《ニーベルングの指環》の名場面を管弦楽ダイジェスト版にした《指輪―オーケストラル・アドベンチャー》(ヘンク・デ・フリーハー編)を取り上げ、全体としては壮麗な音楽を聴かせながら、個々の場面、例えば「ジークフリートのラインへの旅立ち」ではジークフリートとブリュンヒルデがあたかも目の前で対話しているかのような生き生きとした表現を披露し、ワーグナーとの相性の良さを改めて証明してみせた。《パルジファル》の全曲演奏は初めてとなるが、1998年2月の定期公演で、生前この作品の"生き字引"ともいえる存在だったシュタインと第3幕を通して演奏し、名演を聴かせてくれたことをご記憶の方も多いはずだ。当時、出演した楽員がまだ多数在籍しており、そうした経験の蓄積が何らかの形でプラスの効果を生むに違いない。

 さらにブルクハルト・フリッツ(パルジファル)、ミヒャエラ・シュスター(クンドリ)、フランツ・グルントヘーバー(アムフォルタス)らヨーロッパの第一線でこれらの役を十八番としてきた実力派歌手が揃うだけに《パルジファル》の真髄に迫る名演が期待できそうだ。

ストーリーの背景-宗教的な題材から、普遍性を描く

 さて、いよいよ《バルジファル》の作品について触れていこう。長々と述べてきたように日本では、取り上げられる機会が少ない作品だが、その理由としてまず考えられるのは題名の前に付く舞台神聖祝典劇という仰々しい名称が何らかの影響を及ぼしているような気がしてならない。もちろん、ヨーロッパのキリスト教社会では誰でも知っている聖杯伝説が物語の根底に横たわり、実際に宗教儀式の場面も登場するのも事実。さらに第1幕終盤に儀式のシーンがあるためにこの幕が終わった後には拍手をしないなどの"作法"まであることなどから、欧米に比べてキリスト教徒の少ない日本では、敷居が少しばかり高く感じられてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。

 そもそも聖杯(グラール)とは何か。イエス・キリストが最後の晩餐でワインを飲み、処刑された際にその血液を受けたとされる杯のこと。この杯を持つ者、あるいはそれで清らかな水を飲んだ者は永遠の命を授けられるという神秘の力を秘めた器なのである。古くからヨーロッパの芸術にはさまざまな形で、聖杯が描かれてきた。また、1989年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」でハリソン・フォード演じるジョーンズ博士とナチス・ドイツの特務員たちが奪い合うのもこの聖杯なのだ。この物語同様、本当に聖杯を探させた権力者も複数存在したことは歴史の事実として伝えられている。なお、《パルジファル》に登場する聖槍も、聖杯と並ぶ聖遺物のひとつで、処刑でキリストにトドメをさすためにわき腹を突いた槍とされる。

 とはいえ、ワーグナーが描いた聖杯物語ともいえる《パルジファル》は、必ずしもキリスト教の教条的な内容で塗り固められているわけではない。中世の叙事詩、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』を基に作曲者自身が、さまざまな要素を随意に盛り込んで台本を書き上げている。確かにキリスト教の儀式の場面はあるものの、不思議なことにイエス・キリストという名前や教会の典礼文などが歌詞(台詞)に織り込まれてはいないのである。さらにカトリックの「聖杯守護の聖餐」(第1幕)とプロテスタントの「聖金曜日の奇跡」(第3幕)が共存しているだけではなく、仏教的な考え方や東洋哲学の厭世思想の片鱗すら随所に見受けられる。いささか独断が過ぎるかもしれないが、ワーグナーは宗教的な要素を題材として、自らの宗教観、哲学的思想を舞台芸術に昇華させただけではなく、人間の心の内にある普遍的なものを描き出そうとしたのではないか、と筆者は考える。

響きの魅力-「バイロイト祝祭劇場」のための作品!?

 そして肝心の音楽面。《パルジファル》はワーグナー最後の舞台作品なのだが、一点、留意しないといけないのは、台本の完成及び作曲の着手がいずれも1876年の第1回バイロイト音楽祭の後だったことである。総譜を完成させたのは1882年初頭。つまり、ワーグナーはバイロイト祝祭劇場の他に例を見ない特殊な音響を実体験した上で、それを念頭にこの作品を書いたのである。このため《リング》の最後を飾る楽劇《神々の黄昏》と比べても明らかに響きの作り方が異なっている。得意とする調性のコントロールを駆使しながらもハーモニーの色合いを淡い水彩画のごとく微妙に、かつ穏やかに変化させていく手法はこの作品ならではの魅力だ。息の長い旋律の中で移ろい行く荘厳なハーモニーとでもいうべきか...。

ワーグナーは自らが理想とした響きを実現するにはバイロイト祝祭劇場の特殊なアコースティックが不可欠と考えたのかもしれない。加えて宗教的な意味合いからも、《パルジファル》に関してはバイロイト以外での上演を禁じ、死後も第2代音楽祭主宰者となったコージマ夫人が"遺言"を頑なまでに守ろうと奮闘を続けた。(実際にはその意に反して各地でモグリ上演が行われた)しかし、ベルヌ著作権条約の保護期間が切れた1914年からは、ワーグナー家の意向とは関係なく世界中の劇場で公然と上演されるようになり、今日に至っている。その結果、世界各国の多くの観客・聴衆がバイロイトに出かけなくてもこの作品の神秘的で美しい調べを享受出来るようになったわけである。日本のオペラ・ファンの中で、この素晴らしさを未体験の方にこそ、来年のイースターの季節、上野の森で神秘の響きに触れていただきたい。

次回からは、ひと幕ごとにストーリーと音楽を関連付けながら詳しく作品を紹介していきたい。


【作品データ】

原作 :ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルツィヴァール』及び『ティトゥレル』
台本 :リヒャルト・ワーグナー
作曲 :リヒャルト・ワーグナー
初演 :1882年7月26日、バイロイト祝祭劇場
設定 :中世のゴート領(現在のスペイン)のモンサルヴァート城とその周辺

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