JOURNAL

連載《タンホイザー》講座

~《タンホイザー》をもっと楽しむために vol.2

今年も音楽ジャーナリストの宮嶋極氏に《タンホイザー》をより深く、より分かりやすく紹介していただきます。連載第2回は、第1幕の解説です。

文・宮嶋 極(音楽ジャーナリスト、スポーツニッポン新聞社文化社会部長)

 ワーグナー自身が「ロマンティック・オペラ」と名付けた《タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦》。「東京春祭ワーグナー・シリーズ」で取り上げる「ドレスデン版」(Web解説vol.1を参照)は、30歳代前半だったワーグナーの進取の気概あふれる試みが随所に散りばめられた意欲作。この作品の魅力と鑑賞のポイントを分かりやすく、かつ詳しく紹介していきます。

 2010年の《パルジファル》、2011年に予定されていた《ローエングリン》のWeb解説と同様に、物語と音楽を同時並行的に追いながら、ワーグナーがそこに託したメッセージについて考えていきましょう。テキストに記された言葉、譜面の中のさまざまな動機や旋律には、多様な意味合いが込められています。それらを紐解いていくことで、一人でも多くの方に《タンホイザー》を楽しんでいただけるよう、これまで筆者が取材した指揮者や演出家らの話なども参考にしながら、一幕ずつ進めていきます。なお、台本の日本語訳については、オペラ対訳ライブラリー 高辻知義訳『ワーグナー タンホイザー』(音楽之友社)を、譜面はドーバー社刊のフル・スコアとPETERS版のボーカル・スコアを参照しました。

【第1幕】

第1場/h4>

 幕が開くとヴェーヌスベルクの洞窟の中。ヴェーヌスベルクとは、愛と美の女神ヴェーヌスがキリスト教によって地上を追われ、地下世界に築いた愛と官能の楽園のことだ。音楽はA→B→A'という作りとなっていた序曲のBの部分に登場する「バッカナールの動機」(譜例①)と呼ばれる旋律が基調となっている。

譜例①

 洞窟の奥に池が広がっており、そのほとりには海の精セイレーン(ジレーネ)たちの姿が見える。手前にはヴェーヌスが横たわっており、その胸にタンホイザーが顔を埋めている。周囲にはニンフたちが群れ集い、妖艶なダンスを繰り広げる。傍らで睦み合っていた幾組もの男女が踊りに加わり、バッカスの巫女らもその輪に入って熱を帯びてきたところで、「岸に近付いておいで、陸(おか)に近付いておいで」とのセイレーンたちの歌声(譜例②)が幻想的にこだまする。

 踊りはさらに激しくなるものの、音楽が静まるにつれて踊っていた男女らは姿を消し、ステージにはタンホイザーとヴェーヌスだけが残る。

譜例②

第2場

 快楽の世界に溺れていたタンホイザーたが、夢から覚めたのか、ハッと身を起こす。ヴェーヌスはタンホイザーをさらに快楽の世界に留まらせようとするかのように彼の身を引き寄せる。ヴェーヌスベルクにはもうウンザリしていたタンホイザーは、夢の中で教会の鐘の音を聞いたことを打ち明ける。この時、フルートとオーボエが鐘の音を表わす和音(譜例③)を演奏する。彼の心の中には、一度は捨て去った地上世界(ヴァルトブルク)に戻りたい、との思いが募っていたのだ。

譜例③

 翻意を促すヴェーヌスの甘い言葉に誘われてタンホイザーは、竪琴(実際はオーケストラのハープで演奏)を手に序曲のBの部分で登場した旋律(譜例④)に乗せて「ヴェーヌスを讃える歌」を歌う。この時、歌の調性は変ニ長調(Des-dur)である。

譜例④

 ヴェーヌスはその歌にタンホイザーの悲しみが潜在していることを聴き逃さず、自分にどのような非があったのか、と詰め寄る。再び竪琴を手にタンホイザーは「ヴェーヌスを讃える歌」を歌うが、この時はニ長調(D-dur)に移調されている。本稿第1回目、序曲の解説の際にも述べたが、調性において隣り合う調、言い換えれば主音が1度、あるいは半度違う調は最も関係性が遠いものとされる。つまり、同じ旋律を基にしながらも変ニ長調からニ長調に移調されたということは、タンホイザーの心がヴェーヌスから大きく離れてしまったことを聴覚面で暗示している、と推察することが出来よう。

 ちなみにニ長調(D-dur)は、DがDeus(デウス=ゼウス)を連想させることもあり、神聖、崇高な響きを表現する際に使用されることが多かった。さらに主音が中世来の教会旋法であるドリア・モードと同じD(レ)であることも神聖な雰囲気を醸し出すのには適していたのであろう。ただし、ロマン派以降はヴァイオリンをはじめとする弦楽器が演奏しやすい調であることから、オーケストラの名曲が数多くこの調で書かれている。

 ちなみに古典派以前ではパッヘルベルの「カノンとジーク」、ヘンデルのオラトリオ《メサイヤ》の「ハレルヤ・コーラス」、モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》序曲、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章、《荘厳ミサ曲》などが挙げられるが、やはり神聖さや崇高さの表現で使われていることが多い。  これに対してロマン派以降では、ブラームスの交響曲第2番、ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデッキー行進曲」、マーラーの交響曲第1番、同9番、エルガーの行進曲「威風堂々」第1番など、明るく祝祭的な響きとオーケストラでの使い勝手の良さを重視した採用が目立つ。

 この場面ではタンホイザーの心がヴェーヌスから離れてしまったことの暗示と同時に、快楽から神聖なものへの渇望を表現するためのニ長調と捉えることが自然であろう。「女神よ、ぼくを行かせてください」と懇願するタンホイザーにヴェーヌスは「いとしい人よ、あの洞窟をご覧なさい」となおも誘惑を続ける。ワーグナーはこの部分にかなりのこだわりがあったようでパリ版では調性をより複雑なものに改訂した上で、大幅な拡張も施している。

 三度(みたび)「ヴェーヌスを讃える歌」を歌うタンホイザー。この時はさらに変ホ長調(Es-dur)へと移調されている。変ホ長調は「巡礼の合唱」の調であり、タンホイザーの心がもはや、ヴェーヌスへと戻ることはあり得ないことが示される。なお、変ホ長調については本稿第1回をご参照ください。

 引き止めることが不可能と悟ったヴェーヌスはタンホイザーをなじり、激しい調子の二重唱が繰り広げられる。「現世に戻っても決して赦しは与えられない」と迫るヴェーヌスに対し、タンホイザーが「救いは聖母マリアのうちにこそ!」と叫ぶと轟音とともにヴェーヌスベルクが消えてなくなる。この時の叫び(譜例⑤)がニ長調であることにも留意しておきたい。

 フル・ステージ上演の場合、この一瞬での転換は、演出家の腕の見せどころのひとつといわれている。

譜例⑤

第3場

 気を失っていたタンホイザーは、いつの間にか明るい陽光に照らされた美しい谷間に横たわっていた。彼方にはヴァルトブルクの城が、近くには聖母マリアを祭った祠(ほこら)が見える。小高い丘の張り出した部分に牧童が腰掛けており、牧笛(シャルマイ)を吹きながら純朴な歌(譜例⑥)を歌う。調性は春らしさ、のどかさを表わすのに適しているとされるト長調。濃密なヴェーヌスベルクの音楽とは、好対照をなす素朴な響きで、観客・聴衆にタンホイザーが一瞬にして別世界に来たことを聴覚面からも印象付ける効果をもたらす。そこへヴァルトブルクの方角から巡礼たちの歌声が近付いてくる。もちろん「巡礼の合唱」の旋律だ。牧童は牧笛を吹くのを止めて巡礼たちの祈りの言葉に耳を傾け、「どうか、ご無事でローマに行ってらっしゃい!」と帽子を振って送る。その様子に深い感動を覚えたタンホイザーは膝をついて頭を垂れ、「全能の神よ、あなたに栄えあれ!」と祈る。自分の罪を悔いて、涙に声を詰まらせ頭を垂れたままのタンホイザーの頭上に遠くから鐘の音が聞こえ(ト書きにはあるが、スコアに具体的な音は記されていない)、狩の角笛の響き(実際は舞台裏で演奏されるホルン)(譜例⑦)が次第に接近してくる。

譜例⑥

譜例⑦

第4場

 領主ヘルマンと騎士たちが登場。彼らはそこに昔の仲間であるタンホイザーを発見し「ハインリッヒだぞ」と喜ぶ。「何のために戻ってきたのか」と迫るビーテロルフらをヴォルフラムが「質(ただ)すのはやめよ」と制止し「よくぞ帰ってきた」と歓迎の意を表わす。ヘルマンは「私も歓迎するが、それにしてもこれほどの長い間、いったいどこに行っていたのか?」と尋ねる。タンホイザーは空ろな様子で「遠い彼方をさすらっていました」とだけ答える。さらにヴォルフラムは「我々のもとに留まってくれ」と再び仲間に入れと熱心に誘うが、タンホイザーはしばし逡巡する。それでも説得を続けるヴォルフラムが「我々のもとに留まってくれ、エリーザベトのもとに留まるのだ!」と迫ると、タンホイザーは何かの呪縛から解き放たれたようになり「エリーザベト、天の力よ、あの優しい名前を僕に呼びかけるのか」と喜びの表情を浮かべる。この「エリーザベト」に付けられた旋律(譜例⑧)は第2場の終わりの「マリア」と同じニ長調の和音からなり、エリーザベトの存在の意味合いが巧みに暗示されている。ここから先は従来のオペラの伝統的スタイルであるアンサンブルによるフィナーレが繰り広げられる。一瞬にして気持ちが切り替わったタンホイザーは「彼女のもとへ!」と叫ぶと再び、狩の角笛が谷間に響き渡る。オーケストラが第2幕を予告するかのようにエリーザベトの「殿堂のマリア」の旋律(譜例⑨)を高らかに演奏して幕が降りる。

譜例⑧

譜例⑨

 次回は第2幕を詳しくみていきます。

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