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アーティスト・インタビュー〜前橋汀子(ヴァイオリン)<前編>

アーティスト・インタビュー〜前橋汀子(ヴァイオリン)<前編>

東京・春・音楽祭には初登場となる「前橋汀子カルテット」。2014年、前橋汀子(ヴァイオリン)が、弦楽四重奏界のレジェンドである原田禎夫(チェロ)、そして久保田巧(ヴァイオリン)と川本嘉子(ヴィオラ)という日本を代表する二人のトップ奏者と組んだカルテットだ。おりしも演奏活動60周年を迎えた前橋に聞いた。

東京・春・音楽祭2010 前橋汀子の《四季》©︎青柳 聡

 室内楽を、弦楽四重奏を弾きたいという強い思いを、若い頃からずっと持っていました。ベートーヴェンの後期のカルテットをどうしても弾きたかったんです。

そう語る前橋汀子の思いがようやく実現したのが、名手たちが顔を揃えたこのゴージャスな弦楽四重奏だ。最初にコンサートを開いたのは2014年11月のことだった。

 桐朋学園の同級生だったチェロの原田禎夫さんが東京クヮルテットを退団(1999年)したというので、私はぜひ彼と一緒にカルテットが弾きたくてお願いしたのですが、最初は「もうカルテットを弾く気はない」と断られて……。でも何度も何度も声をかけ続けて、口説き落としたといいますか(笑)。
 もうひとつのきっかけが川本嘉子さん。たしかラドゥ・ルプーのコンサートを聴きに行った時に、川本さんにお会いして。その時に、彼女のほうから思いがけず「一緒に《ラズモフスキー》を弾きたいわ」と言ってくださった。それだったらヴィオラをお願いできる?と。久保田巧さんに第2ヴァイオリンをお願いして、とんとん拍子に進みました。室内楽の経験が豊かな方々なので、みんなに助けられ、教えられて、今まで続けてこられました。
 小澤征爾さんから、音楽の原点は室内楽だからカルテットを弾くのは大事だよと言われていたのですが、実際にはなかなかチャンスがなくて。片手間でやれることではないというのもよくわかっていましたし、やはりソロの活動のほうに時間をとられていて。この時期になってしまいました。

前橋が弦楽四重奏と本格的に向き合ったのはこのカルテットでの活動が初めて。しかし1960年代後半にジュリアード音楽院に留学した時期には、ジュリアード弦楽四重奏団の初代第1ヴァイオリン奏者ロバート・マン教授のクラスで弦楽四重奏を学んでいる。

 ジュリアード弦楽四重奏団はワシントンのアメリカ議会図書館のレジデント・カルテットを務めていらしたとても忙しい時期でした。朝9時から私たちにレッスンをし、週3日は午後ワシントンに飛んでコンサートをされる。そんな中、貴重な時間をマン先生は生徒のために割いて下さっていたにもかかわらず、当時の私はソリストとしてやっていきたい気持ちが強く、そのためのレパートリー作りや練習、そのことで頭がいっぱいでした。カルテットの事は二の次になっていて、まじめな生徒ではなかった気がします。
 でもその後、マン先生とは度々お会いし、シェーンベルクやバルトークの曲のレッスンをしていただいたり、クリスマスのホーム・パーティに招いて下さったりと長い交流が続きました。ニューヨークのハンター・カレッジでのジュリアード弦楽四重奏団のベートーヴェン弦楽四重奏全曲のコンサートには、毎回マン先生の奥様のルーシーが誘って下さり一緒に聴きに行きました。懐かしく思い出されます。

東京・春・音楽祭2016 前橋汀子の軌跡 II ~ヴァイオリン・ソナタ集より©︎堀田力丸

前橋の2冊の回想的著書『私のヴァイオリン』(2017年・早川書房)『ヴァイオリニストの第五楽章』(2020年・日本経済新聞出版)には、弦楽四重奏にまつわる、別の苦い経験も記されている。

 学校の掲示板に、カルテットのメンバー募集というアルバイトがあったんです。裕福な老紳士が、マンハッタンの高級アパートで自宅パーティを開いて、ジュリアードの学生と一緒に、自分は第2ヴァイオリンを弾いてカルテットを披露するという計画だったんですね。でも何を弾くのかは書いてなかった。当日渡されたのがベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番《ラズモフスキー》第1番でした。あの曲はすごく難しいんですよ。でも私は弾いたことはもちろん、まだ聴いたことさえなかったんです。当然弾けるわけがありません。ジュリアードの学生ならすいすい弾けると思っていた老紳士は失望したでしょうね。たいへん恥ずかしい思いをしました。今でも "ラズモフスキー" と聞くたびにあの時の光景が思い浮かびます。

・・・後編へ続きます


取材・構成:宮本 明



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