JOURNAL

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 全曲目解説 後編


ピアノ・ソナタ 第16番 ト長調 op.31-1
1800年代、ベートーヴェンは作曲家としてもっとも脂が乗った時期に入ったが、日ごとに悪化する難聴に悩まされるようになり、やがて「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くに至る。op.31の一連のソナタはちょうどその時期に書かれた作品群。第16番は冒頭のアウフタクトからの音階、シンコペーションや付点の多さなど、リズムの面白さを活かした曲である。主調はト長調だが、ヘ長調やロ長調など遠隔調への転調など、響きにも新鮮さが散りばめられている。


ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調《テンペスト》op.31-2
「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためたベートーヴェンであったが、死ではなく、芸術家としての使命を全うする決意を固め、「私は今までの作品に満足していない。今後は新しい道を進む」と、新しい作曲手法の創作に挑み始める。このソナタはまさにその頃に書かれたもの。唐突に楽想が変化する本作について、理解のための助言を求めた弟子のシントラ―に、ベートーヴェンが「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と言ったことから、この曲の通称が生まれた。もっとも愛奏される第3楽章は16分音符による音型が終始、様々な調へと移りながら止まることなく奏されるが、この無窮動風の曲調は、弟子であったチェルニーによると、馬車の走行から着想を得ているという。


ピアノ・ソナタ 第18番 変ホ長調 op.31-3
全体的に優雅な雰囲気に包まれているが、第1楽章の冒頭から調性が不明瞭で、リタルダンドが多用されるなど、「新しいもの」を創作しようとしたベートーヴェンの創意工夫に満ちている。第2楽章には通常、緩徐楽章が置かれるが、ここでは快活なスケルツォとなっており、しかも通常3拍子を使用するところに2拍子が選ばれている。第3楽章はメヌエット、第4楽章はタランテラ風。1曲のソナタの中にスケルツォとメヌエットが並存する興味深い曲だ。


ピアノ・ソナタ 第19番 ト短調 op.49-1
ベートーヴェンのソナタは全32曲あるが、それらは出版順になっているため、必ずしも作曲順に並んでいるわけではない。op.49の2曲は、実際には第4番の直前に書かれた。「2つのやさしいソナタ」というタイトルが与えられており、弟子のために書いた作品と見られる。第1楽章にアンダンテが置かれているのが少々不思議な印象をかもす。第2楽章は一転してスタッカートに彩られた軽やかな雰囲気になっている。


ピアノ・ソナタ 第20番 ト長調 op.49-2
前曲とは対照的に堂々とした雰囲気で始まる。第1楽章では3連符の動機が多用され、曲中で重要な役割を果たす。第2楽章はロンド形式のメヌエット。なお、この曲の第1主題は、七重奏曲(op.20)やピアノ三重奏曲(op.38)の第3楽章の主題として再利用されている。


ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調《ワルトシュタイン》op.53
1803年、ピアノ・メーカーのエラール社からベートーヴェンにピアノが贈られた。新しい機構を備えたこの楽器は、音域が5オクターヴ(61鍵)から5オクターヴ半(68鍵)に拡大したことに加え、連打がしやすくなるなど弾きやすさも向上していた。第1楽章冒頭の和音の連打にはその弾き心地に対する感動が聴き取れる。形式上でも新たな試みがなされている。このソナタには通常の第2楽章(緩徐楽章)はなく、代わりに「序奏部」と記された〝つなぎ〟が置かれている。第3楽章は繊細な分散和音の中から静かに浮かび上がるように旋律が奏される。ペダルの積極的な使用も指示されており、新しいピアノの音色や響きを味わっているベートーヴェンの姿が浮かんでくるかのようだ。


ピアノ・ソナタ 第22番 ヘ長調 op.54
前曲と第23番との間に挟まれた本作は、特異な存在感を放っている。2楽章から成り、どちらの楽章も同じヘ長調。さらに第1楽章冒頭には「メヌエットのテンポで」と記されているが、メヌエットの形式では書かれていない。また《ワルトシュタイン》の第2楽章になるはずであった「アンダンテ・ファヴォリ」との相関性も見出すことができる。なお、こちらの第2楽章は、右手と左手による対話を思わせるロンド風の作品。


ピアノ・ソナタ 第23番 へ短調《熱情》op.57
1804年に創作が始まったこのピアノ・ソナタは、名作が陸続と生み出された「傑作の森」と呼ばれる時期(1804〜14年頃)のもので、技巧・音楽性ともに充実した作品。1803年に贈られたエラール社製の最新のピアノは、音域が広がり(68鍵、5オクターヴ半)、アクションも変更されて、ダイナミクスが拡大すると同時に音色が深く・重くなった。それにともない、作曲の技法・書法が進化したことはもちろんだが、感情表現の振幅がいっそう豊かになっている。非常に強い音で連続して和音を弾くといった激しい表現が多用されるが、これはエラールの堅牢な作りのピアノだからこそ実現したと考えられる。一つの動機が全楽章を通して使用されるなど、創作手法においても充実した内容を誇る。


ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調《テレーゼ》op.78
前作から4年経って書かれたこの作品は、全2楽章と規模が小さく、歌謡性も強く、前作とは対照的な様相を呈している。これはベートーヴェンがそれまで徹底して用いていた、主題を動機的に分解して展開する「動機展開」を封印し、新しい手法として1809年から旋律性豊かな主題を積極的に使用するようになったことが関連している。なお、本作は伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスヴィックに捧げられたため、《テレーゼ》という通称で呼ばれている。


ピアノ・ソナタ 第25番 ト長調 op.79
これまで様々な革新的手法でピアノ・ソナタに向き合ってきたベートーヴェンだが、この曲は非常に古典的で、技巧的にもかなり平易な作品。そもそもベートーヴェン自身はこのソナタを「やさしいソナチネ」というタイトルにすると出版社に手紙を書いていたのだが、なぜか自筆譜には「ソナタ」と印刷されたため、現在ピアノ・ソナタのうちの1曲となっている。「かっこう」とも呼ばれるように、それを思わせる音型が使用されていたりして、特徴のある曲ではある。


ピアノ・ソナタ 第26番 変ホ長調《告別》op.81a
ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの多くには副題が付けられ、それらは広く親しまれているが、ベートーヴェン自身が命名したのは第8番《悲愴》と第13番《幻想曲風》、そしてこの《告別》の3曲のみである。ベートーヴェンの弟子であり、パトロンでもあったルドルフ大公がナポレオン戦争を避けてウィーンを去った1809年に書かれ、彼との別れを惜しんだベートーヴェンが、このソナタの第1楽章に「告別」と書いたのだ。序奏つきのソナタで、冒頭主題3つの下行音型には〝Lebewohl(さようなら)〟の言葉が記されている。寂しく、哀しげな第2楽章は「不在」の題を持つ。切れ目なく奏される第3楽章は「再会」と名付けられ、再会の喜びと感動を表すように急速な音型が終始鍵盤を駆け巡る。


ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 op.90
《告別》から5年ぶりに書かれたソナタで、全2楽章から成る。ベートーヴェンの2楽章構成のソナタは、通常のソナタからはかけ離れた形式・雰囲気を持っているが、この曲も例外ではない、第1楽章はソナタ形式だが、楽想が次々現れるため、ソナタ形式としては分析しづらい。第2楽章も、同じ楽想が反復されたり、付点を利用したやわらかい雰囲気の旋律によって展開し、ロマン派を先取りした曲想となっている。


ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 op.101
前曲に続き、歌謡性が強く、従来のソナタ形式にあてはめて分析することが困難な曲。第1楽章はイ長調でありながら、属調のホ長調を思わせる開始で、伸びやかな旋律が奏でられる。第2楽章は遠隔調となるヘ長調の行進曲風。第3楽章には「ゆっくりと、そして憧れに満ちて」という指示があり、途中で第1楽章の美しい旋律が回想される。前曲と合わせて、カンタービレな旋律と教科書的なソナタ形式からの完全な脱却という二つの成果が実った、新しい時代を切り開いた曲である。


ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調 op.106《ハンマークラヴィア》
4楽章から成るこのピアノ・ソナタは、ベートーヴェン自身が「50年も経てば、人も弾くだろう」という言葉を残したほどに演奏至難な作品。当時普及していたピアノではカバーしきれない音域も使われていることから、ピアノの進化と手を携えるように創作を行なっていたベートーヴェンが、先の時代を見据えてこの曲を生み出したことが推察される。全楽章に共通するモティーフが用いられ、もっとも大きな規模の最終楽章へ向かっていく形は、後期ベートーヴェンの顕著な特徴だが、この曲ではそれがより緊密かつ有機的なものとなっている。本作はやがて、ロマン派以降では珍しくなくなる〝単一楽章〟のピアノ・ソナタの嚆矢となった。


ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 op.109
ベートーヴェンの音楽は様々な面で新しい時代の扉を開いたが、その中でも際立っているのが形式の枠組みを超越していったことである。通常ピアノ・ソナタと言えば、第1楽章にソナタ形式の使われた楽章を含むが、この第30番を見ると、第1楽章は一応ソナタ形式の体裁は保ちつつも、分散和音を基調とした即興的な雰囲気で、前奏曲のような性格をかもす。第1楽章と第2楽章は切れ目なく演奏され、境目も曖昧。そのため、両楽章は一つの楽曲だと考える見方もある。第3楽章は主題と6つの変奏曲で、全楽章中もっとも規模が大きい。主題が最後に回帰する点、対位法を駆使した変奏が随所に見られることなどから、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》との相関性も指摘されている。


ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 op.110
ベートーヴェンは第30番から32番、そして第29番《ハンマークラヴィア》といった後期のピアノ・ソナタを書く以前の1817年、フーガの研究に取り組んだ。これを経て、第29番とこの第31番の終楽章に規模の大きなフーガが取り入れられたといっても過言ではないだろう。一方、ヘンデルの影響も強く受けており、終楽章の冒頭に置かれた「嘆きの歌」にはそれが反映されている。「愛をもって」と指示された第1楽章は、ベートーヴェンの全ピアノ・ソナタの中でも特に旋律性が強い。第2楽章には当時の流行歌のメロディが使用され、諧謔的な雰囲気に満ちている。第3楽章で2回目に表れる「嘆きの歌」は、一度息絶えたように停止するが、最後には力強く鼓動し、輝かしく希望に満ちたフィナーレを迎える。


ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 op.111
地獄落ちを思わせるハ短調の第1楽章から、同主調であるハ長調の、何もかも解き放たれたような第2楽章に向かう構成を用い、ベートーヴェンの〝苦悩から歓喜へ〟の精神が非常に強く反映されている。トリルの使われ方の対比も特徴的で、第1楽章は地の底で何かが呟くようにうごめくトリルが印象的な序奏を経て、「ソ-ラ-シ-ド」という音型をキッカケに跳躍し、順次進行が入り乱れた動機が楽章全体を支配する。アリエッタを主題とした5つの変奏曲が続く第2楽章では、高音域でのトリルが多用される。この終楽章における、静謐の中で刻々と移る和声変化、第2、3変奏に唐突現れるジャズを先取りしたかのようなリズムの使用は非常に印象的。作曲者の肉体的摩耗、それに抗おうとする不屈の精神、そして祈りに満ちている。



関連公演

Copyrighted Image