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ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 全曲目解説 前編


ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 op.2-1
すでに少年期にピアノ・ソナタを書いているが、出版された作品としては、初のピアノ・ソナタである。op.2の3曲は、かつての師であったハイドンに献呈された。第1番は♭4つのへ短調で書かれているが、これは当時としては異質で、ベートーヴェンの先輩であるモーツァルトやハイドンのソナタには、♭や♯が4つ以上つく作品は少ない。また3楽章構成が通例であったこのジャンルで4楽章構成を採用したのは、同じ4楽章構成の交響曲や弦楽四重奏曲といったジャンルと並ぶ地位に押し上げようとしたことがうかがえる。また、全楽章をヘ調で統一しているのも、先人たちのソナタには見られない試みである。


ピアノ・ソナタ 第2番 イ長調 op.2-2
重厚な第1番、第3番の間にあるこの第2番は優美な雰囲気に満ち、チェンバロを華麗に奏するようなギャラントな雰囲気を持っている。強弱の対比や多彩な転調に若き作曲家の個性が表れており、第3楽章には慣例のメヌエットではなく、スケルツォを置くといったあたりにもピアノ・ソナタをこれまでとは違うものにしようという野心が垣間見える。


ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 op.2-3
満を持して出版した最初のピアノ・ソナタ群は、それぞれがベートーヴェンの〝革新性〟に満ちた曲であった。第1番は調性、第2番では形式でそれを示したが、この第3番ではピアノ協奏曲を思わせる巨大な書法と調の特殊性が盛り込まれている。チェンバロに取って代わったフォルテピアノも、当時はまだ完成した楽器ではなく、音量・音域など満足のいくものではなかったが、ベートーヴェンはその限界を超えるような音楽を書き、常に未来を見据えた創作を行なっていた。


ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 op.7
規模的には第29番《ハンマークラヴィア》に次ぐ大曲であり、作曲者自身もop.2よりさらに大きな曲を意識していたのか、初版には「グランド・ソナタ」と表記されていた。その一方で楽曲を包むのは優雅な雰囲気。主和音と主音連打で始まり、洗練された印象を与えるが、これには献呈されたバベッテ(バルバラ)・フォン・ケグレヴィッチ伯爵令嬢との関係が少なからず影響しているようだ。彼女は非常に優れた弾き手で、ピアノ協奏曲第1番(op.15)など複数の作品が献呈された。おそらくはこの曲もバベッテのため、もしくは彼女のピアニズムを意識して書かれている。


ピアノ・ソナタ 第5番 ハ短調op.10-1
ベートーヴェンが初めて3楽章構成で書いたピアノ・ソナタである。彼が好んで使ったハ短調で、第1楽章で繰り返し奏でられる和音と上行音型が印象的に響く情熱的な曲。同じハ短調で書かれた《悲愴》ソナタや《運命》交響曲と同じ変イ長調による第2楽章は、12連符や6連符といった細かいパッセージが多いが、これらはただ装飾的なものではなく、全てが主題や動機と関連するような動きをしており、ベートーヴェンの徹底した構成美の追究が見えてくる。


ピアノ・ソナタ 第6番 ヘ長調 op.10-2
前曲と同じく3楽章構成で書かれているが、曲想は対照的で、明るさと軽やかさに満ちている。このような対比は、交響曲第5番《運命》と第6番《田園》など、のちの交響曲でも同じ傾向が見られる。しかも同じ調性の組み合わせ(ハ短調とヘ長調)というのが興味深い。3連符と16分音符が入り乱れていたり、主調がヘ長調なのにもかかわらず再現部でニ長調が突然現れ、♭系から♯系に変わるなど、変化に富んでいるのも特徴である。


ピアノ・ソナタ 第7番 ニ長調 op.10-3
op.10を構成する3曲のうち、もっとも規模の大きい本曲は、4つの楽章を擁し、内容もいっそう深くなっている。特にそれを象徴するのが第2楽章。非常に内面的で、「ゆっくりと、そしてメスト(悲しげに)」という指示通り、深い嘆きに満ちている。下行音型も多く、強弱の変化も唐突で、様々な感情が錯綜する。第1、3、4楽章ではオーケストラの音色を意識したような音使いも見られ、楽章の数だけでなく、響きとしてもスケールの大きな曲に仕上がっている。


ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調《悲愴》op.13
第1楽章には「重々しく」と記された序奏がついているため、それまでに書いた7曲のピアノ・ソナタとは大きく違うように見えるが、この形式はベートーヴェンがボン時代の1782年から83年に書いた「選帝侯ソナタ」(WoO.47)の第2番にもすでに見られる。第1楽章は重厚な和音の響きにアリア風の旋律、急速な分散和音の楽想が錯綜する。第2楽章の旋律は「ベートーヴェンの全作品中でも指折りの音楽」と評されるほど美しく、魅力的。第3楽章は分散和音の伴奏音型の上に単旋律が奏されるという、それまでの楽章と比べるとかなり簡素なつくりになっているが、これはヴァイオリン・ソナタ第3番(op.12-3)の第4楽章として構想されたことが影響していると思われる。


ピアノ・ソナタ 第9番 ホ長調 op.14-1
第8番《悲愴》まではタイトルに「チェンバロまたはピアノフォルテのための」という記述があったが、この曲からは「ピアノフォルテのための」となっており、19世紀に差しかかり、ちょうどチェンバロからピアノに移行し、その普及がほぼ済んだ時期に生まれたソナタということがわかる。使われている旋律や音型も、チェンバロでは効果があまり生じないもので、かなりピアノという新しい楽器の響きを意識して創作されている。のちにヘ長調の弦楽四重奏曲(Hess 34)に編曲されるが、ピアノ・ソナタの段階で、すでに四声体を意識して書かれている。


ピアノ・ソナタ 第10番 ト長調 op.14-2
前曲と同様、この楽曲も複数の楽器の対話のようになっている。特に展開部の3連符伴奏が続くところでは、左右のリズムが「2:3」となり、パートの独立性が強められる。第2楽章は行進曲を思わせる主題による変奏曲。第3楽章は「スケルツォ」と指示されたロンドだが、終楽章にスケルツォは通常、置かれないため、性格的な意味合いが強いと思われる。実際に拍子を捉えづらく、不思議な浮遊感があり、本当の意味で「気まぐれ」な楽曲になっている。


ピアノ・ソナタ 第11番 変ロ長調 op.22
ベートーヴェン自身が「このソナタは素晴らしいものです」と述べるほどの自信作だった。変ロ長調という調選択、第2楽章を下属調にするなど、古典派ソナタの伝統を引き継いではいるが、4楽章構成を採用し、対位法的な要素を多分に含み、第1楽章の要素を第4楽章で再び使用するなど、古典的枠組みの中で新しい試みがなされている。この後ベートーヴェンは、ソナタ形式の楽曲を第1楽章に置かないなど実験的なことを試すようになるので、古典的なスタイルの総決算的作品と言える。


ピアノ・ソナタ 第12番 変イ長調 op.26
ソナタ形式の曲が置かれておらず、第1楽章が変奏曲となっている。しかしこれはすでにモーツァルトが《トルコ行進曲付き》ソナタで行なっており、ベートーヴェンも同曲を意識して書いたと推測される。モーツァルトがメヌエットとした第2楽章をベートーヴェンはスケルツォに、「トルコ行進曲」の第3楽章は「葬送行進曲」、さらに第4楽章を追加していることから、先人の作品を意識しつつ、新しいものを生み出そうとした意図がうかがえる。


ピアノ・ソナタ 第13番 変ホ長調 op.27-1
この曲は《幻想曲風》ソナタとも呼ばれているように、厳格な形式をもつソナタと自由な幻想曲との融合が試みられた意欲的な作品。大きな特徴として、ソナタ形式の楽章が省かれ、全ての楽章が続けて演奏される。また、通常のピアノ・ソナタであれば第1楽章に重心が置かれるが、この曲は終楽章に全体の重心が来ている。


ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調《月光》op.27-2
《月光》の名で知られているが、これはあくまで通称であり、ベートーヴェン自身は「幻想曲風」という副題を与えていた。現在の通称で知られるようになったのはベートーヴェンの死から5年後、詩人で音楽評論家のルートヴィヒ・レルシュタープがこのソナタの第1楽章について「ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と語ったことに由来する。4楽章制のソナタからソナタ形式の第1楽章を省いて、緩徐楽章で開始するような構成となっている。第2楽章はメヌエットもしくはスケルツォといったスタイルの曲だが、続く第3楽章の序奏のような役割も持ち、全体が一つになるよう構成されている。


ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調《田園》 op.28
第12番から14番とは対照的に、第1楽章にソナタ形式の曲を持つ、4楽章から成るソナタ。《田園》という通称は初版譜にはなく、1838年の出版譜からつけられていた。ベートーヴェン自身がつけたものではないと思われるが、全体を通してタイトルにふさわしい雰囲気に満ちている。第1楽章と第2楽章がニ長調とニ短調で同主調関係になっていること、終楽章のロンドは第1楽章の保続音の流れを受け継いでいる点などから、全楽章の統一感を出そうとしていたことがうかがえる。


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