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“東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ vol.9 ボフスラフ・マルティヌー”に寄せて

遍歴・多作の作曲家〜ボフスラフ・マルティヌー

遍歴・多作の作曲家〜ボフスラフ・マルティヌー

文・村山 実(音楽ライター)

ボフスラフ・マルティヌー

 1890年、チェコ南東部の寒村ポリチカで生まれる。近郊の都市はブルノ。7歳から習い始めたヴァイオリンで天賦の才を発揮。10歳のころから作曲も始めた。周囲のバックアップを得て、16歳でプラハ音楽院に進学。しかし、教育方針に馴染めず、学外で仲間たちと無許可で演奏活動を行なったため、20歳で退学処分に。帰郷して小学校の教師などをしていたが、友人の尽力でチェコ・フィルに第2ヴァイオリン奏者として入団。この直後、《弦楽四重奏曲 第1番》を作曲している。1920年代初頭にはスークのもとで作曲を学びなおし、同時代のフランス音楽に強く惹かれていった。なかでもドビュッシーは若きマルティヌーのアイドルだった。
 1923年、奨学金を得てパリへ留学。ルーセルの教えを受けながら、ベル・エポックの芸術家たちと交友を重ねた。対位法に魅せられ、バロック音楽に傾倒。この時期の代表作が《調理場のレビュー》である。パリ時代には、指揮者のターリヒやザッハー、ピアノのフィルクシュニー、チェロのフルニエといった名手たちがマルティヌーの作品を演奏した。1938年、ナチス・ドイツの侵攻により祖国のズデーテン地方が割譲されると、《戦時のミサ(野外のミサ)》(1939)を作曲。祖国解放のためにフランスで結成されたチェコ人義勇軍に捧げられた。1940年、フランスが降伏。ナチスのブラックリストに載っていたマルティヌーは事実上、音楽活動を禁じられた。
 翌1941年、米国へ亡命。アメリカ時代には、指揮者クーセヴィツキーらの求めに応じて、第1番から第5番までの交響曲などを生み出した。1943年、ナチスの報復により皆殺しとなったプラハ近郊の村を悼む管弦楽曲《リディツェ追悼》をニューヨークで初演。第二次世界大戦終結後、マルティヌーは祖国帰還の方途を探っていたが1948年、チェコ・スロヴァキアが共産化。理解者だった外相ヤン・マサリクが更迭され、その後ホテルの窓から謎の転落死を遂げた。指揮者クーベリックも国外へ亡命。在米時代には、60歳の誕生日を祝って《協奏交響曲》(1949)がスイスのバーゼルで初演され、1950年にはクーベリック指揮ロンドン・フィルにより《二重協奏曲》(1938)が録音されるなどして、マルティヌーの名が知られる足がかりとなった。本公演の後半で演奏される一連の室内楽も1940年代から50年代にかけての作品である。
 1953年、ついにヨーロッパに戻ってニースに居を構えるも、ローマで教鞭を執るなど、各地を転々としながら晩年を過ごした。1958年、バーゼルでオラトリオ《ギルガメッシュ》の初演を成功させ、翌1959年、最後の大作オペラ《ギリシア受難劇》を完成。同年8月28日、大腸癌のためスイスで死去。遺灰となった作曲家が祖国に戻ったのは1979年のことだった。




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