JOURNAL

ワーグナー集
2023/11/01

《トリスタンとイゾルデ》におけるケルト文化の基層

文・伊東史明

トリスタンとイゾルデ(ハーバート・ジェームズ・ドレイパー/1901年)

 《トリスタンとイゾルデ》 の物語の発祥はケルト文化であると言われるが、ワーグナーの生きた19世紀はまさにこのケルト文化熱が充満した時代であった。この当時のケルト文化への注目の大きな渦は、世紀半ばに現オーストリアのハルシュタットで、時を置かずしてラ・テーヌ遺跡の大発掘に端を発し、 その後ケルト文化復興運動が19世紀に起こる。ヨーロッパの基底 にギリシア・ローマ文化だけではないもう一つのものがあることを知った当時の人々の中にケルト文化熱が興り、ワーグナーもこの渦の中に生きていたのである。

 ケルト人の文化とはどのようなものであったのか。彼らの時間概念は自然の営みに即して、円環的で、 成長-死-再生が循環し、またケルトの社会構造は女神崇拝を元とした「母権制社会」が基底にあり、母の居住地が大きな意味を持った。そして名前付けも名前の相続も母系がなしていた。イゾルデの母の 名もイゾルデであったと、中世詩にあるのが興味深い。

 この世界では大地の女神(太母神)が支配している。アイルランドでは王はその土地の女神と結婚した人間とされ、彼を夫とした女神は彼に酒杯を手渡す(結婚の象徴的儀式)。 そこで基礎をなすものは、女神とそのパートナー=ヘロスであり、この両者は女祭司とその王の形を取るが、この結婚は民衆に新たな生命をもたらす。これは春と夏に地と海を豊饒にするが、女神は冬に老女神としてヘロスを犠牲に供し、冥府へといざなう。そして彼は次の年の初めに再生する。つまり春におけるイニシエーション、夏の神聖な結婚、秋から冬にヘロスの死と再生という循環である。これはワーグナーの《トリスタン》にも見られ、二人の愛の場であるⅡ幕冒頭のト書きに「明るく心地よい夏の夜」と書かれており、Ⅲ幕はト書きに荒れ果てたイメージが書かれてあるように秋から冬、つまり死(と再生)という予感がなされる。冬のへロスへの死は捧げものとしての犠牲であり、その血によって次の年を豊饒にする。つまり 「死」というものはこの世界観では決定的破滅的なものではなく、宇宙の秩序に基づく新たな状況で、土地と民のための自発的な自己犠牲であり、それは女神によって授けられ、死と再生をもたらす媚薬(愛の林檎)によってヘロスは死と再生を迎え、永遠の若さを保つのである。ブランゲーネはⅡ幕1場で媚薬のことを、自分がした仕業だと後悔するが、イゾルデは「愛の女神をお前は知らないとでもいうの? その魔法(奇跡)の力を知らないとでも?」と言い、それは「世界の生成を司る大祭司の女神様」のしたことだと、彼女を一笑に付すのである。

 ケルトの女神ダーナは「豊饒の釜」を持ち、ここから詩人が生まれ、そこから死者もが甦る。これは王の印として女神からそのパートナーのヘロスに貸し与えられる。さらにこのヘロスは冥界に行くが、それは常に再生と結びついている。また女神の領域は海の向こうの遥かな島など常に「西」(コルンヴァルから見たアイルランド)にあり、ここに到着するのはまれであり、そこには果樹(林檎)がたわわに実る。女神は病に対して、そして死者に対してさえ「賢い女医」とされる。《トリスタン》のⅢ幕1場でクルヴェナールがイゾルデを指して言う「最良の女医」の言葉が思い出されよう。

 しかし社会の父権制化の過程において、例えば女神ダーナは男性神ドーンに取って代わられ、様々な女神のシンボルが男性神に移行し、杯も女神の持ち物ではなくなり、その特性―豊饒、魔術、神託、医術といった元来女神の特性であったものも失われる(Ⅰ幕冒頭のイゾルデの嘆きの意味がここにある)。《トリスタン》では、父権制の王マルケは母権制の王ヘロスであるトリスタンから女神イゾルデを奪い、甥トリスタンを「臣下」として自分より下位に置く。これは母権制社会の妻(女神)を強奪し、それを所有するという形で起こり、女神とヘロスの仲を引き裂き、女神を奪うのである。


 さらに社会のキリスト教化で神話伝説のキリスト教的モラル化が起こる。この過程で、「豊饒の釜」 は 「聖杯(Gral)」となり、さらに中世に文化の宮廷化が進み、そこへの適合・順応が生じる。「高きミンネ」や「忠誠」というシステムによって古代の世界創造の力が置き換えられてしまい、規律や名誉が騎士道の指導概念になる。忠誠ということをその最大の徳としてきたトリスタンは、イゾルデに杯を渡 され、彼女との真の関係に目覚めた後、何度もその忠誠や、名誉のむなしさを語る。「なぜ、トリスタンの名誉など夢に見たのか」(I幕5場)。

 古代母権制の世界像は世界の父権制化やキリスト教化によって変形させられ、また駆逐されてきた。しかしそれは抑圧されながらも新たに変形した神話やメルヒェンの中で、形を変えて生きて来た。そこでは太母神の代わりに、ただ「母」として、あるいはその後継者たる娘の女神という代わりに「王女」という名をつけられ、時には「魔女」として生かされる。そして女神のパートナーはヘロスという代わりに 「勇士(Held)」という名で呼ばれるのである。トリスタンが何度Heldと呼ばれることか。しかし本来トリスタンは女神イゾルデによって選ばれたヘロスであり、マルケの父権制社会において失われたパートナーなのである。 彼女は失われた根源のパートナーのことを嘆く。「私の相手として選ばれながら、私から失われた人」(I慕2場)と。これはまさにHerosとしてのトリスタンの今の状況を示している。

 古代母権制社会の女神イゾルデは、その母イゾルデの後継者であり、ここで描かれる争いは新しい父権制社会とのものである。この王妃と臣下の愛の関係は、新しい父権制の秩序に対する古代母権制の反抗であり、このことによって王と王妃の関係を壊し、宮廷の後継者を王から奪うという反乱である。トリスタンはマルケの甥、つまり妹の子であり、本質的に母権制的息子で相続者なのであるが、この「息子」を王妃イゾルデは王から奪うのであり、王はその両者を失う。つまりここで父権制の「父・息子関係」を貫けないことが、王マルケにとって悲劇的なのである。

 トリスタン伝説の源泉の一つとされるアーセルドゥーンのトマが伝えるケルトの伝説によると、この文化圏には3人の預言者(指導者)がおり、ここで愛の情熱を司るのがトリスタンで、彼は後に「マルケ」に仕えるが、この名は「馬」を意味する。馬崇拝というのは、ゲルマン・ケルト起源で神秘的知が悟性的知へ移行することを意味する。つまりトリスタンがマルケに仕えるということは、その愛の情熱を悟性意識に譲り渡すことを意味する。この今や滅びゆく魔術的文化圏にはエシルト(イゾルデ)が属する。この文化圏の雄牛信仰に属する3人の王女は、先の3人の指導者とパートナー関係にある。つまりトリスタンは元来この文化圏におり、イゾルデとパートナーであった。しかし後にトリスタンは悟性的力を信奉する馬文化圏に仕える、つまり進歩した精神文化圏の推奨者になるのである。彼はモルガン(モロルト)を殺す、つまりその母権制文化を破壊した後、イゾルデをマルケの文化圏に連れて来る。彼はイゾルデをアイルランドからコルンヴァルヘマルケと結婚させるために連れて来るが、これはケルトの魔術的文化圏からヨーロッパ的悟性的文化圏への暴力的移行を意味する。それゆえに彼女はⅠ幕で「屍同然」なのである。

 魔術的世界での魂の愛の力は、悟性的世界のものには持ち得ないものであり、その代表者であるマルケは「愛することの出来ない王」である。これは彼自身のⅡ幕最後の嘆きの言葉で示される。かつてイゾルデは自分の前に傷ついてやって来たトリスタンの眼に自分と同質のものを見、それ故に彼女は彼を救った。しかし今や真の敵であるマルケに売り渡そうとしており、イゾルデは怒りに震える。彼女はト リスタンの中に自分のパートナーたる本質を見、以前のパートナー、モロルトの死を許した。 それは古い王の新しい王への交代、つまりヘロスの交代である。しかし彼は彼女を裏切り、別の世界の王マルケに売り渡した。二人が死ななければならないのは当然である。 それは本源の愛を取り戻すためである。 死によってあの魔術的魂の根源がよみがえり、マルケの世界から離脱できる。 死(愛)の薬によって、かつての世界へ、原型へと立ち返ることができる。その場所こそが、暗い母の胎内、かつての本源の国なのである。しかしトリスタンは一人で死ななくてはならない。それは彼のイニシエーションであり、再び女神イゾルデのパートナーになるという本来の姿に戻る必然なのである。それゆえその姿を確認したイゾルデは愛の死を遂げ、彼らは「永遠の合一」を遂げるのである。最後に現れるのは海が見えるシーン、それはI幕の冒頭と同じであり(円環的)、そこには海(水)の人と言われたケルト人の、女神が持つ死と再生の神秘的力がある。

(「東京・春・音楽祭2020」公式プログラムより転載)



関連公演

Copyrighted Image