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すべての人々への「祈り」をこめ、聖テレーズ教会から「普遍の真実」を発信
〜キット・アームストロング賛江(2)

すべての人々への「祈り」をこめ、聖テレーズ教会から「普遍の真実」を発信〜キット・アームストロング賛江(2)

文・池田卓夫(音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎ https://www.iketakuhonpo.com/


©︎JFMousseau

 キット・アームストロングの日本でのピアノ・リサイタルを過去3回、聴いた。最後は2019年2月4日、東京・築地の浜離宮朝日ホール。前半のクープランからJ・S・バッハ、フォーレにかけては鍵盤音楽の歴史、調性に対する嗜好の変遷、和声の流動化プロセスを様々な角度から検証し、現時点の私たちが「いったい、どこに立っているのか」を確かめる〝沈潜の旅路〟。後半はバードの素朴な舞曲の躍動感が一転、リストの錯綜した変奏曲の超絶技巧にとってかわる〝跳躍の旅路〟。終演後に振り返ると、音楽史の巨大なパズルを完成させたような達成感を覚えるのは、過去2回と同じ。数学と化学の学位も取得、哲学や演劇まで広い視野を持つ頭脳が生むパルスには、限界がないようだ。

 あまりに独自の表現世界に対し、私みたいな「中毒」症状を呈する者もいれば、一緒に聴いた知人のように「お葬式みたい」と当惑する人もいる。アームストロングが2013年、ベルギー国境に近いフランス北部オー・ド・フランス地域圏エーヌ県のコミューン(自治体)、イルソン(Hirson)の「幼子イエスの聖テレーズ教会」(the Church of Sainte-Thérèse-de-l'Enfant-Jésus)を取得し、演奏活動の拠点とするばかりか、実際に住んでいると聞くと、ますます〝キット教〟のグル(導師)のように思えてくる。

 「最初は建物の独特な美しさ、光を伴う視覚に魅了されましたが、内部の音響も素晴らしかったのです。自分が取得すると決まり、この教会に〝第2の生〟を与える意味で何ができるか、地元の人々とも話し合いました。私が心がけるのは、心地よい場所であるように、仕事の空気に広がりが生まれるように、といったことです。清澄な空気の中にできるだけ多くの人を迎え入れ、地域の人々にも開放して、色々なアイデアを形にしていきたいと考えました」。2014年にここで最初のコンサートを行い、2015年には第一次世界大戦への追悼としてシマノフスキの作品を特集、地域の小学生の合唱も交え、映像も上映したという。

 アームストロングは「まずは音楽からスタート、次第に広がり、その音楽に至るまでの過程や周辺の事象のすべてが巻き込まれ、再び音楽に帰結するような展開」を目指していたが、2019年末から広がった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界拡大(パンデミック)で一時中断を余儀なくされた。「こうした事態が起きたのは音楽史上、初めてのことではない」と即座に考えたアームストロングは。2020年3月から7月にかけて、様々な時代の作品を演奏した映像を約100本、聖テレーズ教会から世界に向けて連日、インターネットで発信した。それは、東京・春・音楽祭2023の「鍵盤音楽年代記」5回公演の選曲のベースにも生かされている。

 いつ、何が起こっても「クラシック音楽を介し、人間の知覚と美学的な愉悦にかかわる普遍の真実を理解する」ため、「自分自身の音楽への愛をこめ、コミュニケートする」と心に決めているアームストロング。東京・春・音楽祭の聴衆に対しても「膨大に蓄積され、開かれた過去を伴う現代の多元性」にそれぞれの聴き方で目覚め、「未来に入ってほしい」と願っている。絵画や文学、演劇など他の芸術ジャンルと異なる音楽の特異性は「目に見えない空気の振動」の同時体験にあり、ホールに集まった聴衆は演奏家とともに現在、過去、未来を自由に往来する「音楽だけの時間旅行」を共有できる。アームストロング〝船長〟がしつらえた鍵盤音楽年代記は、極上の時間旅行の連続である。



▼聖テレーズ教会での演奏の様子





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