JOURNAL

永遠の子ども・ブリテン

「ベンジャミン・ブリテンの世界IV 20世紀英国を生きた、才知溢れる作曲家の肖像」に寄せて

文・中村ひろ子

 ベンジャミン・ブリテン(1913-76)の10作目の歌劇《ノアの洪水》op.59は、1958年6月18日に、第11回オールドバラ音楽祭の一環としてサフォーク州のオーフォード教会で初演された。

 オールドバラは、ロンドンから車で2時間ほどの北海に面した小さな町。絶えず表情を変える海のほかは何もないが、それが魅力でもある。海を深く愛したブリテンは、1947年に移り住んで以来、終生をオールドバラで暮らした。オールドバラ音楽祭を始めたのは、1948年。初期は町の小さな公会堂と教会を会場にこじんまりした規模で開催されていたが、やがて国際的な音楽祭に発展する。とはいえ、豪華な劇場があるわけでもない。今年で73回目を数えるが、今もよい意味でローカルな色を残す音楽祭である。ブリテンもまた、国際的に活躍しつつもローカルなコミュニティに根ざした作曲家だった。

 オーフォードは、オールドバラから少し南に下ったところにある、さらに小さな町だ。石造りの鐘楼がそびえたつ教会は14世紀にまで遡る歴史をもつが、内部はごく質素で、大聖堂のような壮麗な空間ではない。音楽祭で使われたのは《ノアの洪水》が初めてだったが、その後《カーリュー・リヴァー》はじめ教会寓話三部作がここで初演され、響きがよいので現在も演奏会場の一つとなっている。

 《ノアの洪水》は、もともとは民間放送局ITV系列のアソシエイテッド・リディフュージョン(AR)の委嘱で学校放送用の作品として構想され、その後ARが手を引いたためにオールドバラ音楽祭で初演された。当初から、劇場ではなく教会のような日常的な空間を会場とし、子どもやアマチュアが出演することが想定されている。

 初演に出演した子どもたちは、近在のいくつもの学校から集められた。当時のプログラムには、動物たちの合唱に67人、リコーダーやビューグル、ハンドベルも含む「イースト・サフォーク・チルドレン・オーケストラ」に65人の名前が載っている。百人超の子どもが駆け回る稽古だったが、ブリテンは子どもたちの心を見事につかんでいたという。いろいろな動物の仮面をかぶった子どもたちと話す、微笑ましい写真が残っている。

 ブリテンは、自らの少年時代を愛し、少年の心を失わないひとだった。作品にも、ボーイソプラノを生かしたものが少なくない。《ノアの洪水》も、子どもでも演奏しやすいよう十分に考慮されていた。行進する動物たちが唱える「キリエ・エレイソン」をはじめ耳に残るフレーズが多いのも、ブリテン作品としては珍しい。誰でも知っている題材を用いていることもあって、《ノアの洪水》は英国各地の学校や教会で上演される人気作品となった。

 「アーティストはコミュニティの一部としてコミュニティのために働き、コミュニティと共にあり、コミュニティに用いられるべきだ」と語ったブリテン。大人になっても、世界的な巨匠となっても、常に少年の心をもっていたブリテン。《ノアの洪水》は、実にブリテンらしい作品だといえるだろう。

(「東京・春・音楽祭2020」公式プログラムより転載)
中村ひろ子 Hiroko Nakamura

カザルスホール、横浜みなとみらいホールを経て、現在、松本市音楽文化ホール制作プロデューサー。翻訳書に『魂の声』、『ベンジャミン・ブリテン』他。




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