JOURNAL
ハルサイジャーナル
名匠ヤノフスキは、どんな誠実なワーグナーを聴かせてくれるだろうか?
生涯に2度、《ニーベルングの指環》全曲を正式にレコーディングした指揮者はどれくらいいるだろうか? おそらく大変少ないはずだが、そんな稀有な指揮者の一人にマレク・ヤノフスキがいる。本稿では、音楽評論家の東条碩夫氏に、ヤノフスキの《ラインの黄金》の新録音について、その解釈、特に演奏の「テンポ」に注目して解説していただいた。
文・東条碩夫(音楽評論)
「マレク・ヤノフスキを東京・春・音楽祭の《ニーベルングの指環》の指揮者として招いたのはとてもいいアイディアだ」と、ワーグナーに精通したドイツ在住のある日本人演奏家が言っていた。
つまり、ワーグナーの音楽をナマの演奏会で、ドイツ育ちの指揮者によるドイツらしい音で、しかもわざとらしい誇張のない演奏で落ち着いて聴くには、現在のところこれは最適な人選だ、と言うのである。
たしかにヤノフスキの指揮は、いわゆる派手な大芝居やハッタリは持ち合わせていないけれども、その代り正面から作品に取り組み、ストレートに音楽を構築し、しかも情感を込めた演奏をつくるという特徴を備えている。攻撃的で勢いのいい即物的な《指環》の音楽をつくる指揮者は多いが、ドイツの良き伝統を継承してじっくりと陰影の濃いワーグナーを指揮するドイツ人指揮者は、今はドイツにさえほとんどいないのだ――というその演奏家の指摘は、ある意味で当を得ているだろう。
周知のとおり、このところマレク・ヤノフスキの活躍は目立っており、ワーグナー指揮者としての声望はすこぶる高くなっている。
最近、彼はワーグナーのスタンダード・レパートリーたる歌劇・楽劇の全10曲のレコーディングを行なった――2010年11月の《さまよえるオランダ人》を皮切りに、10~11年のシーズンのうちに《パルジファル》と《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の録音を、また11~12年のシーズンに《ローエングリン》《トリスタンとイゾルデ》《タンホイザー》を、そして12~13年のシーズンには《ニーベルングの指環》全4作の録音を完成したのであった。
特に《指環》は、ヤノフスキにとって、これが30年ぶり、2度目の全曲録音にあたっていた。世の中にベートーヴェンの交響曲全曲を複数回録音した指揮者は少なくないが、《指環》全曲を2回もレコーディングした指揮者は、そうざらにはいないはずである。しかも、舞台上演のライヴ録音がたまたまディスク化されたケースとは違い、たとえライヴであろうとも最初からレコーディングを目的にした演奏を行なう機会を持てたのだから、実に稀な指揮者というべきであろう。
ヤノフスキが《指環》の以前のレコーディング(1980~83年)で指揮したオーケストラは、老舗のシュターツカペレ・ドレスデンであり、協演歌手もテオ・アダム、ルネ・コロ、ジェシー・ノーマン(!)、ペーター・シュライヤーなど、当時の名歌手たちを集めた布陣であった。ヤノフスキもまだ40歳を出たばかりだったから、この海千山千(?)の大物たち相手の全曲録音とあっては、少々手に余るものがあったかもしれない。これに対し最近の録音は、気心知れたベルリン放送響を指揮したものであり、さらに70歳代の円熟期を迎えた演奏ということもあって、今や彼のめざすものは余すところなく実現された演奏と思っていいはずである。
早めのテンポが生み出す 緊迫感とドラマティックな面白さ
ヤノフスキが指揮したワーグナーを聴くと、いくつかの際立った特徴を感じることができる。たとえばその一つは、歌手のドイツ語の発音をきわめて明確に、しかも非常に劇的に、ニュアンス豊かに浮き彫りにさせていることである。特に旧盤では、歌手によっては、まるでドイツ語の会話がそのまま音楽になったような歌唱さえ聞かれたのだった。こういうスタイルの演奏ができるのは、やはりドイツ育ちの指揮者ゆえのものであろう。新盤にも――旧盤ほどではないが――同じような傾向を聴くことができよう。
もう一つは、ヤノフスキのテンポは、かなり速めであることだ。たとえば、新しい録音での《ラインの黄金》の演奏時間は2時間20分23秒(旧盤は2時間19分26秒)だが、これはこの曲の演奏時間としては、やはり、かなり速い方だ。
ちなみに他のCDでは、1958年のデッカ盤でのショルティの指揮は2時間25分45秒、2005年のアムステルダムでのハルトムート・ヘンヒェンは2時間25分09秒であり、08年バイロイトにおけるティーレマンは2時間29分42秒、同年ハンブルクでのシモーネ・ヤングは2時間30分32秒という演奏時間である。
また、伝説的な超遅テンポの指揮者クナッパーツブッシュには1956年のバイロイト録音に2時間37分32秒という記録があり、その他にも1988年MET録音CDのレヴァインに2時間36分53秒、2007年バレンシア上演DVDでのメータに2時間38分10秒という演奏時間があるが、これらはまず例外といっていいかもしれない。
いっぽう、ヤノフスキに近いテンポの《ラインの黄金》では、いずれもバイロイトでの上演ライヴだが、1955年のカイルベルトに2時間20分55秒、80年のブーレーズに2時間22分06秒という記録がある。
それよりさらに速いテンポとなると、あまり多くはないと思われるが、1967年バイロイトでのベーム指揮の録音に2時間16分47秒というのがあり、もっとすごい例では、2010年にエッセンで、シュテファン・ショルテスが2時間15分という超快速で飛ばしていたのを聴いたことがある。
こうした演奏時間の数字そのものにはあまり意味はないけれども、それを生み出す各指揮者のテンポの違いが、作品の姿を描き出す上で極めて大きな特色を生んでいることは、改めて言うまでもないだろう。
ヤノフスキの速いテンポは、時に素っ気なく感じられ、登場人物の逡巡や苦悩の感情があまり深刻には描かれぬ場合もなくはないが、その代り、そのたたみかけるようなテンポが、長大な作品に強い緊迫感と、目まぐるしく展開するドラマティックな面白さを生み出し、あまり長さを感じさせないという良さも生んでいるのである。しかもそれでいながら、音楽全体には、穏健で中庸を得た演奏という感が保たれているのだ。
こういったヤノフスキの指揮の特徴が、今回の東京・春・音楽祭における《ラインの黄金》では、どのように再現されるだろうか。そのあたりも、聴きどころの一つなのである。