JOURNAL
春祭ジャーナル
東京・春・音楽祭2019
リッカルド・ムーティ「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」vol.1 《リゴレット》
開催レポート Part 2
東京・春・音楽祭15周年を機に始動した巨匠リッカルド・ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミー」。8日間に亘った今春の第一回目のアカデミーでは、ヴェルディの《リゴレット》を題材に連日ムーティによる熱き指導が繰り広げられました。オーディションを通過した指揮受講生、音楽を学ぶ聴講生、そしてオペラを愛する一般聴講生らに向けて行われた本アカデミーの模様を、音楽ライターの宮本明氏にレポートしていただきます。
Part 2は3月29日に東京藝術大学内で行われたマスタークラスの模様から。
文・宮本 明(音楽ライター)
3月28日に講演「リッカルド・ムーティによる《リゴレット》作品解説」で始まった「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」。その本編は、翌日から東京藝術大学内で始まった、若い指揮受講生たちを対象とする《リゴレット》のマスタークラスだ。4月4日の公演(演奏会形式)に出演する歌手たちとオーケストラのリハーサルを、そのままレッスンとして活用する形で進められた。
今回の指揮受講生は4人。最終オーディションは、前日の、作品解説の講演の前に行なわれたのだそう。海外からオーディションに参加した人も大勢いたはずで、それが日本まで来て直前でチャンスを失う。きっとそれが当たり前なのだろうし、仕方がないとはいえ、いかにも厳しい。というか、「世界」への道のりは甘くないのだと実感。こういうのは、わたしたち聴く側のファンは、ふだんあまり意識していないところかもしれない。
選ばれたのは以下の受講生たち。
・チヤ・アモス Chiya AMOS(シンガポール)1990年生まれ
・サミュエル・スンワン・リー Samuel Seungwon LEE(韓国)1990年生まれ
・ヨハネス・ルーナー Johannes LÖHNER(ドイツ/アメリカ)1990年生まれ
・沖澤のどか(日本)1987年生まれ
9月にブザンソン国際指揮者コンクール優勝のニュースが大きく報じられたので、いまや沖澤さんの名前をご存知の方は多いだろう(おめでとうございます!)。彼女は2018年の第18回東京国際音楽コンクール〈指揮〉の優勝者でもある。ほかの3人も、すでにそれぞれのキャリアを歩み始めている若い指揮者たちだ。
レッスンは、午前・午後がオーケストラだけのリハーサル、夜は歌手たちのリハーサルという時間割で始まった。オーケストラ・リハーサルは受講生たちが交代で指揮し、それをムーティが指導。公演に備え、ときにオーケストラにも直接指示を与える。歌手のリハーサルはピアノ伴奏で(ピアノ=山口佳代)、ムーティが直接歌手にレッスンするのを、受講生たちは間近で見学して学ぶ。なお、前日の作品解説同様、聴講生には同時通訳受信用のイヤフォン付きレシーバーが配られた。
3月29日10時。いよいよマスタークラスが始まる。初日のトップバッターは沖澤さんだ。第1幕のリゴレットとスパラフチーレが最初に出会う二重唱〈あの老いぼれ、俺を呪った!〉(第3曲)でレッスンがスタートした。
振り始めてすぐ。
「歌って!」
いきなりムーティが言った。
比喩としてではなく、実際に声楽のパートを歌いながら指揮しなさいという指示だった。歌手のいないオーケストラ・リハーサルなので、オケのために代わりに歌って聴かせなければならないということでもあるし、歌詞まで含めてきちんと頭に入っていなければダメですよという教えでもあるようだった。
もちろん本物の歌手のように朗々と良い声で歌うことが要求されているわけではなく、歌手の「歌い方」を示しなさいということ。と言っても、そんなに簡単ではない。受講生たちは、歌い方がちょっとおざなりだったり、たびたび歌うのを忘れたりして(あるいは歌う必要がない箇所と判断して)、マエストロに叱られていた。
実際、ムーティの「お手本」は上手かった! 声も案外(失礼!)良いのだけれど、歌詞のニュアンスをとても巧みに表現する。イタリア語が母語だから当たり前という話ではないだろう。
「イタリア・オペラを振りたいのならイタリア語を理解しなければなりません。ヴェルディは言葉とオーケストラを室内楽のように書いています。だから難しい。それがイタリア・オペラです。テノールが高い音を出すのがイタリア・オペラではないのです」
ひととおり通したあと、沖澤さんがオーケストラに指示を出す。
「昨日マエストロが作品解説で語ったように、出だしのクラリネットとファゴットはお葬式の鐘の音です。もっと弱くお願いします」
すかさずムーティ。
「そうですね。もっと小さくてもいい。そしてクラリネットとファゴットは音を止めないで......。でもね、それはわたしたち指揮者次第なんですよ。音楽は数学ではないのです。あなたのは正確すぎます。目の中から恐怖が出てくるような感じを表現しないと。若いときは正確にやりたいものです。でも、もっと表現してください。そのためには奏者たちを愛してほしい。彼らは家族なのです。リズムを刻むのではなく、表現をするために指揮者がいるのです」
ただし、このやりとりはやや例外的だということがあとでわかった。指揮者のための公開レッスンでは、沖澤さんがしたように、自分の解釈をオーケストラに対してどのように伝えるかも含めてレッスンすることも多いと思う。大事なことだ。しかしどうやらこのアカデミーではそれよりも、とにかくまずは、ムーティが培ってきたヴェルディの伝統、イタリア・オペラのあるべき姿を、若い受講生たちに、そのまま渡すことに主眼が置かれているようだった。受講生たちも最初のうちはみんな、「マエストロに認められるためにも、オケに何か注文を出さなければ」という感じもあったのだけれど、徐々に雰囲気を察して、少なくとも言葉では指示を出さなくなっていったのは面白かった。実際、ムーティが言ったように、その多くは棒だけでも解決できる問題なのかもしれない。
オーケストラ・レッスンはおおむねこのように、受講生が第1幕から順番に1曲ずつ交代で指揮していく形で進められた。ひとり約30~40分ずつ。その内容は、いわゆる指揮法的なテクニック面から、作品の細部の解釈まで、じつに多岐にわたる。ひとつひとつが濃厚ではあるが、専門に音楽を学んでいるわけではないわたしたち一般の聴き手にも、とても勉強になるし、楽しめる内容だった。
期間中を通して核となるテーマはおもに2つあった。
まずひとつは、ヴェルディの意図を守ること。
「ヴェルディの書いたとおりに演奏してください!」
誤解に満ちた、悪しき「イタリア・オペラの伝統」のせいで定着してしまっている、楽譜から離れた自由な解釈や、音符の恣意的な改変を厳に戒める。
とくにヴェルディの音楽が、言葉と密接に関係して書かれていることを、ムーティは繰り返し説いた。だから音符ひとつひとつの言葉と音の意味をきちんと考えて音楽を作っていかなければならない。ムーティ流に言うと、「ワーグナーはシンフォニーの上に歌が乗っているようなものだからヴェルディよりは簡単です。ヴェルディは一音一音すべてが大切なのです」
真のイタリア・オペラの姿を伝承することは自分の使命だと繰り返すムーティは、7月に78歳になった。
「わたしの仲間の何人かはもういなくなりました。わたしももうすぐです。死ぬ前に若い人たちに何かをのこしたいのです。ぜひみなさんがイタリア・オペラの真の姿を取り戻してください!」
もっとも、そのエネルギッシュなレッスンからは、高齢による衰えなど微塵も感じられないのだけれど......。
そしてもうひとつのテーマが、なるべくシンプルに、明確にするということ。指揮のテクニックも、音楽づくりそのものも。オーケストラの流れを阻害するような棒の動きや、意味のないジェスチャーには、「オーケストラの邪魔をしてはいけません」と容赦なく、しかし巧みにジョークを交えた叱責が飛ぶ。
「オーケストラをコントロールするとき、大げさに身体全体で振ってしまってはいけません。そうやるほどうまくいかなくなります。最小限の動作で振ることを覚えないと」
「あなたはドイツで勉強したのですね。(皮肉っぽく)カペルマイスターではないのだから、カクカクと拍を刻むような振り方はしないでください。イタリアでは愛と自由が大切なのです。あまり正確さを主張しないほうがいいです。薬剤師じゃないんだから」
「鼻息や足踏みはやめましょうよ。オーケストラのひとりひとりが音楽家なのですから。飛び跳ねたり髪を振り乱して振りまくるのでは、音楽家たちがかわいそうです。昔の指揮者は動かなかった。わたしはその中間ぐらい(笑)」
「左手で『おいでおいで』みたいなジェスチュアーをするのはやめたほうがいい。ちょっと侮辱っぽくもあるし、必要ではないですよね。必要でないことはやらないように」
「でも必要なことだけしか振らないとキャリアが築けないかもしれないですね。『情熱が足りない』とか言われて......。キャリアのためのパスポートは激しく振ることです。『おお、なんと情熱的!』(笑)。でも、わたしがいるあいだは、わたしのやり方でやってください」
ムーティが範とするのは、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニだ。トスカニーニはヴェルディから直接教えを受けた。そしてムーティの師アントニーノ・ヴォットーは、長くトスカニーニのアシスタントを務めた指揮者。ムーティは師を介して、トスカニーニの教え、つまりはヴェルディの教えを受け継いでいるのだ。それはけっして古めかしい骨董品ではない。ムーティのいう「悪しき伝統」に慣れてしまった現代のわたしたちの耳にはむしろ新鮮で、余計なものを削ぎ落とした清新な音楽に圧倒される。毎日、目からウロコがはらりはらりと落ちていった。
さて、もちろん4人の受講生はそれぞれの個性の持ち主。ムーティとのやりとりのなかで、それぞれのキャラクターが出ていたのも面白い。次回は彼ら受講生の様子をお伝えしよう。
[今日のマエストロ①]緊迫!ムーティの怒り
ユーモアたっぷりにレッスンを進めるムーティだけれど、ときにはビシッと場を締めることも。
「トスカニーニの有名な言葉があります。みんな聞いてくださいね......」
と話し始めたときに、オケの誰かが何かしゃべっていたらしく、
「わたしが話しているときは話さないで! 他の指揮者はいいかもしれませんが、わたしはダメです!」
とピシャリ。たぶん他の指揮者もダメだろうけど......。
また、あるリハーサルの終わり近く。バス歌手がメゾ歌手の腕時計を覗いたのが目に入ったようで、怒気をはらんで、
「わたしに聞けば何時か教えますよ!」
と一喝。これは明らかに歌手が悪い。
さらに、
「(レッスンに飽きたのなら)出て行きなさい。さあ。立ちなさい!」
とつづけた。
立ち上がったバス歌手は、身長2メートル近い大男。ムーティはファイティング・ポーズを作りながら、
「あなたのほうが強そうですね」
と笑ってオチをつけておしまいにしたのだけれど、どこまでが本気でどこまでがジョークだったのか。ちょっと緊迫した瞬間だった。
photos : ©青柳 聡