JOURNAL

ベートーヴェンが過ごしたボン

ベートーヴェンが過ごしたボン

文:越懸澤麻衣

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年12月17日、ボンの聖レミギウス教会で洗礼を受けた。以来、彼はライン川沿いのこの小都市で約22年間を過ごした。若きベートーヴェンはそこでどんな体験をしたのだろうか。
 ボンは今も昔も「大都市」ではないが、長らくケルン大司教選帝侯の宮廷が置かれたり、第二次世界大戦ののち再統一まで西側のドイツ連邦共和国の首都だったりと、歴史的に重要な役割を果たしてきた。ベートーヴェンの時代はというと、1784年にウィーンからハプスブルク家のマクシミリアン・フランツ(女帝マリア・テレジアの末子)が選帝侯として着任。地理的にはフランスとの国境に近いものの、ウィーンから強い影響を受けるようになった。しかもこの新選帝侯は大の音楽好きで、2350冊という当時最大級の楽譜コレクションをボンに持ち込んだ。
 ベートーヴェン家は、祖父が宮廷楽長で父が宮廷テノール歌手と、代々ボン宮廷と関わりがあった。幼い頃から音楽の才能を示し、父から毎日厳しく鍵盤楽器を練習させられたルートヴィヒ少年が宮廷音楽家になるのは、当然の成り行きだっただろう。最初に就いた有給の職は宮廷第2オルガニスト。その後1789年からは国民劇場で宮廷楽団のヴィオラ奏者としても活躍した。ベートーヴェンというと「自立した音楽家」というイメージがあるかもしれないが、まずは伝統的な宮仕えからキャリアを開始したのである。ちなみに宮廷楽団の演目は近年研究が進み、新選帝侯の意向でウィーンのブルク劇場を模して建てられた劇場では、モーツァルトやサリエリなどのオペラが上演され、ベートーヴェンがオーケストラ・ピットで演奏したことが分かっている。さらにこの楽団は「宮廷演奏会」も催し、ハイドンらの最先端の交響曲も盛んに演奏していた。こうして接したウィーンのレパートリーが自らの作品の模範となったことは想像に難くない。
 ボン時代のベートーヴェンの教師として有名なのは、同じくボンの宮廷楽団に属していたネーフェである。ネーフェからの影響は過大評価されるきらいがあるが、彼がバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を課題として与えたことは、ベートーヴェンに後々まで影響を及ぼした。1782年に処女作《ドレスラーの行進曲による変奏曲》WoO.63を指導し、出版をお膳立てしたのもネーフェである。
 また、ベートーヴェンは10代半ばから貴族にピアノを教えていた。母が亡くなり父のアルコール依存症が悪化していた頃のベートーヴェンにとって、ピアノ教師として出入りしたフォン・ブロイニング家は家庭的な温かさに触れられる場であった。《3つのピアノ四重奏曲》WoO.36は同家でも演奏されたと伝えられている。
1792年11月、ベートーヴェンは選帝侯からの奨学金を得て、ハイドンに作曲を学ぶべくウィーンへ活動の場を移した。その後、彼が故郷に戻ることは一度もなかった。

(「東京・春・音楽祭2022」公式プログラムより転載)
越懸澤麻衣 Mai Koshikakezawa

東京藝術大学大学院博士後期課程修了。著書に『ベートーヴェンとバロック音楽:「楽聖」は先人から何を学んだか』(音楽之友社、2020年)がある。現在、昭和音楽大学、洗足学園音楽大学ほか、非常勤講師。




関連公演

Copyrighted Image