JOURNAL

ハルサイ的「世界街歩き」

東京【最終回】

プラハ、ウィーン、バイロイト 、ラヴェンナ…。
2005年に「東京のオペラの森」としてスタートし、2009年より「東京・春・音楽祭」として新たな幕開けをした音楽祭。
その16年の歩みの中で縁の生まれた、世界の街の数々をご紹介してまいりました本連載も今回で最終回です。

 今回でこの"ハルサイ的「世界街歩き」"も最終回。

 東京・春・音楽祭が盛り上がっている時もそうでない時も、淡々と続けてきたこの連載、訪れることができなかった街もいくつかあって、少々心残りなところもありますが、ひとまずここで区切りと致しましょう。

 というわけで戻って参りました。最終回はここ、東京です。

歌川広重《江戸名所・にほんばし江戸ばし》

 わが国の首都、東京は言うまでもなく、ニューヨークやロンドン、パリなどと同じく、押しも押されもせぬ大都市。しかしいつからこのような大都市になったか・・・と振り返ってみれば、それは既にここがまだ「江戸」だった時代──かの徳川家康が江戸幕府を開いてからでしょう。 「こんばんは。徳川家康です」がひそかな人気、このところ毎週日曜日になるとNHK大河ドラマ『青天に衝け』で何やらユーモラスに登場するこの方ですが、やはり江戸幕府の初代征夷大将軍は偉かった。

 もちろん江戸という街そのものは、平安時代の後期からあり、室町時代の15世紀末には武将・太田道灌が江戸城を築き、ここは関東の交通の要衝になっていました。とはいえ、鎌倉幕府があった時をのぞけば、かつて日本の中心はなんといっても西日本であり、関東は“田舎”だったわけです。1600年におきた天下分け目の「関ケ原の戦い」後、勝利した徳川氏によって幕府が開かれてからの江戸は、種々のインフラも整って急速に都市作りが進行、人口はついに100万人を突破し、経済的にも文化的にも世界でも屈指の都市になったのです。(特に上下水道のインフラ、また人々の識字率の高さに関しては当時にして、世界一だったと言われます)

1914年に開業した東京駅の天井ドーム

 そしてご存じのとおり、19世紀末には明治維新がおきます。江戸幕府が倒れ明治新政府となってからも、政府は江戸あらため「東京」に置かれ、天皇は江戸城を皇居として、京都から東京に“遷都”が果たされました。おっと順序が狂いましたが、それで東の京、「東京」という名に。
ただでさえ世界でも高度な都市となったところに、新政府の方針である「西洋に追いつけ、追い越せ」の西洋化が図られ、東京はさらなる急速な近代都市化を進めます。その後、関東大震災や太平洋戦争による壊滅的な破壊を経てなお、私たちの東京は(過剰なくらい)堂々たる大都市となって現在に至っています。

 (そんな街でありますから、ぜひ「今」の東京の姿だけを見ず、足元に今も残る江戸時代の痕跡や寺社仏閣に情緒を感じ、そして思いを馳せてもらえれば、と思います)

上野の街/©飯田耕治

 さて維新後、東京をはじめ西洋化が推し進められる中、今私たちが聴く西洋のクラシック音楽が続々と流入、また政府によって作られた「音楽取調掛」を経ての「東京音楽学校」の設立、そしてそれが東京藝術大学となり、そこを中心のひとつとしてクラシック音楽はどんどん日本中に拡がっていきました。 「そこ」こそは、東京・春・音楽祭の本拠である、ここ上野です。

 当時から現在まで、まだ150年もたっていません。ハルサイで演奏するベテラン演奏家はもちろん、若い日本人アーティストの演奏を聴いていると、たったこれだけの年月で私たちの音楽シーンはよくここまで・・・と。
もちろん、その間、今のように教育の環境などが十分整わないなか、手探りで勉強を進め、修練を積んでたくさんのものを築いてきた先人たちの情熱、すさまじい努力を忘れてはいけません。ローマはもちろん1日では成らないのですから。

 昭和に入り、日比谷公会堂などでクラシック音楽の公演が主に行われる中、東京・上野にコンサートはもちろん、オペラやバレエもできるホールを・・・という願いから東京文化会館が建ったのが1961年。先日はハルサイの中で60周年バースデーコンサートもありました。このホールを本拠に、これからもハルサイでは過去、現在、未来をつなぐ公演を続けていきます。木に竹をつなぐようなものではなく、東京はもちろん、日本の音楽文化がこれまでの先人たちの培った精進を土台に、新鮮でさらに豊かなものに成長しますように。 そしてそれが、どんな困難の中にいても人々を高め、潤す糧となればどんなにいいでしょう。

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