JOURNAL

多彩なタペストリー

「名手たちによる室内楽のきわみ」に寄せて

文・辰野裕一

 ジョルジェ・エネスク(フランス語名ジョルジュ・エネスコ)は、ルーマニアの生んだ歴史的ヴァイオリニストであり、指揮者、ピアニスト、作曲家、教育者としても優れる「musician complet(ミュジシャン・コンプレ「完全な音楽家」)」であった。

 1881年、農民の子に生まれ神童とうたわれたエネスクは、7歳からウィーンでヘルメスベルガーに、パリでマルシックにヴァイオリンを師事する。クライスラー、ティボーと同門である。作曲のうえではブラームスに傾倒して激励を受け、パリ音楽院ではフォーレとマスネに学んだ。ラヴェルとは同窓の親友である。フランスとルーマニアを行き来しつつ多彩な活躍をしたが、戦後は祖国に戻ることなく、1955年パリで亡くなっている。

 ヴァイオリニストとしてのエネスクは、柔らかで含み声のような美音を生む「エネスク・ヴィブラート」を駆使し格調高く内面的情熱を秘めた演奏で一世を風靡した。ピアニストの遠山慶子さんが師コルトーに連れられて晩年のエネスクを訪ねた時、「アジアからの女の子のために」と、コルトーとバッハのソナタをひいてくれたエネスクが三連符の連なるフレーズを弾きながらじりじりと迫ってきた感じが忘れられない、と思い出を語ってくれた。

 エネスク自身は作曲家として認められるのを望んでいたが、演奏家としての声望があまりに高かったため、フルトヴェングラーと同様、作曲は余技とみなされがちだった。内容的にも、印象主義やモダニズムなどが華々しく登場した時代にあって、とりとめない「折衷的」な作風として、在世中は高く評価されなかった。しかし近年では、後期ロマン主義、近代フランス音楽、ルーマニア民族音楽を軸としつつ、確固たる技法で独自の世界を創造したエネスク作品の「多様性」の魅力に気付いたクレーメルやテツラフなどの気鋭の音楽家たちにより、積極的に取り上げられるようになってきている。

 今回演奏される弦楽八重奏曲も、19歳の若書きながら熟達した技法と若々しい情熱にあふれた力作である。

 冒頭の跳躍音程と半音階の綾に彩られた複雑で息の長い主題の提示から、独自のカラーが聴く者の心をとらえる。全曲を通じた精緻で重厚なポリフォニーや対照的にあらわれる素朴で甘美な旋律も魅力的だ。第三楽章の静謐でなつかしいモノローグはまさに「夢想とあこがれの詩人」エネスクの世界。ルーマニア民謡に由来するのか、土俗的でリズミックな迫力とバルカンの国ならではの東洋的な味わいもユニークである。

 たしかに随所にブラームス、フォーレ、バルトークの要素を感じさせもするが、それらはエネスクの音楽的個性によって統一され、多彩なタペストリーを織りなしている。そこに何を見出し感ずるかは、奏者と聴き手に与えられた特権と歓びといえるだろう。

(「東京・春・音楽祭2020」公式プログラムより転載)
辰野裕一 Yuichi Tatsuno

元文化庁審議官。小学生時代からクラシック音楽に親しむ。故クリストファ・N・野澤氏、幸松肇氏などの薫陶を受け、ヒストリカル音源や室内楽を愛好する。リパッティを愛聴。




関連公演

Copyrighted Image