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アーティスト・インタビュー〜ルドルフ・ブッフビンダー(ピアノ)

 「全曲演奏会」という言葉には甘美な響きがある。だれもが知る名曲から知られざる佳品まで、天才の創作史を丸ごと体験できるのだから、ワクワクせずにはいられない。今回、オーストリアの名匠ルドルフ・ブッフビンダーは、計7回の演奏会でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲を演奏する。ピアニストにとって聖典とも呼ばれるベートーヴェンのピアノ・ソナタだが、これだけの短期間で全曲を聴く機会は貴重だ。ブッフビンダーは語る。

「ベートーヴェンは初期から晩年まで、ピアノ・ソナタとともに人生を歩んできました。ピアニストは32曲のソナタをぜんぶ弾かなければならないとは言いません。しかし、絶対に全曲を知っていなければならない。ピアノの教授のなかには有名な数曲しか生徒に弾かせない人もいますが、まちがっています。どのソナタにもそれぞれのキャラクターがあり、どのソナタにもそれぞれの難しさがある。32曲のなかには一般的に有名ではない曲もありますが、全曲演奏会であれば聴衆は知られていない曲にも触れることになります。新しい宝物を見つけることができるでしょう」

 今、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を開くにあたってブッフビンダー以上のピアニストはいないだろう。なにしろ、これまでに全曲演奏会を60回以上(!)も行ってきたのだから。
「初めての全曲演奏会は30代はじめのことでしたが、幸いにしてあまり記憶にありません。最初はとても大変だったことはたしかです。このまま忘れてしまったほうがいいかもしれません。回を重ねることで私の演奏はずいぶんと変わってきました。これまでにベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を3回レコーディングしているのですが、いちばん最初の録音を聴いても自分の演奏だとわからないでしょう。当時、自分の表現はとても直接的で、今のように自由ではなかったのです」

 ちなみに3度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は2014年のザルツブルク音楽祭での演奏会を収録したもので、同音楽祭の歴史上初めての全曲演奏会としてドイツグラモフォンからリリースされた。レコーディング・ビジネスのあり方が変化しつつある現在、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を3度も録音するピアニストはもう出てこないかもしれない。

 経験豊富なブッフビンダーは、演奏の一回性を大切にするピアニストでもある。
「舞台に出るときは、まだ結果がわかりませんよね。ふたつとして同じ演奏会はないのです。まったく同じ演奏会もないし、まったく同じ演奏もない。だから、音楽がつまらなくなることはありません。私は毎日違う曲を弾くのが好きなタイプのピアニストです。ピアニストのなかにはツアーで毎回同じ曲を演奏するタイプの人もいますが、私はそうではないのです」

 全32曲を短期間で演奏するのは、日々違う曲を演奏するためだけではない。
「もしワンシーズンかけて、あるいは何年もかけて全曲を演奏するとなれば、個々の作品のつながりが見えなくなってしまいます。作品のあいだの関連性を感じてほしいので、短期間で全曲を演奏するのが好きなのです」

 全曲演奏会で32曲をどう配分するのかは、パズルを解くような問題だろう。各公演には最終日を除いて、さまざまな時期の作品がミックスされている。たとえば最初のソナタである作品2の3曲は第1回、第3回、第5回に割り振られている。どの日にも有名曲が少なくとも一曲は入っている。ただし、最終日のみは第30番から第32番までの3曲がセットになっており、この日のみ休憩が入らない。
「32曲をどう割り振るかは、何十年をかけてだんだんと固まってきました。この組合せで演奏することで、毎回、聴衆にベートーヴェンのさまざまな時期の作品を届けることができると考えています。最終日だけは例外です。最後の3曲はほかと並べることができません」

 しばしばブッフビンダーはウィーンの伝統の継承者と呼ばれる。だが、本人は自分自身をなんらかの流派に属するピアニストとは考えていない。
「私はウィーンでブルーノ・ザイドルホーファーに師事しました。彼の弟子には私のほかにグルダやアルゲリッチもいました。ザイドルホーファーは教師然とした人物ではなく、ひとりひとりの個性を大切にして、自分自身を保ち続けられるよう助けてくれたのです。私は伝統という言葉があまり好きではありません。ピアニストにロシア楽派やドイツ楽派のようなものはないと思っています。同じ先生についていてもギレリスとリヒテルはまったく違うタイプですよね。同じドイツ人でもケンプとバックハウスもまるで違う。どの演奏家にもそれぞれの個性があり、ありがたいことに、まったく違うのです。私には流派というものはありません」

 私たちが耳にするのはウィーンの伝統ではなく、2024年のブッフビンダーだ。過去の反復ではない一回きりのライブとして、名匠のベートーヴェンを体験したい。

取材・文:飯尾洋一

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