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ようこそハルサイ ~クラシック音楽入門~

自己陶酔型の偏屈オヤジだからこそ 傑作が書けたプッチーニ

文・香原斗志(オペラ評論家)

ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)

 すばらしいオペラを鑑賞できる幸せは、いくらでも味わいたいけれど、仮にそのオペラを書いた作曲家が生きていたとして、友だちづきあいができたら幸せかといえば、そこは話が違うのだ。自己陶酔型の偏屈オヤジが多くて、なるべくなら交わりたくない。残念ながら、プッチーニはその典型である。

 プッチーニはかなりの寡作だった。ロッシーニは37歳でオペラの筆を折るまでに38作を書き、ドニゼッティは50年の生涯に70ものオペラを書いた。それにくらべればヴェルディは寡作だったけれど、それでも改作をふくめ28のオペラを遺している。ところが、プッチーニは《三部作》をひとつずつ数えても、生涯にオペラを12しか書いていない。いや、書けなかったと言ったほうが正確だろう。

 その理由は、題材選びにこだわりまくったこともあるが、それ以上に、台本が納得のいくように仕上がるまで一切の妥協をしなかったからだ。ひとたび題材が決まってからの台本作家とのやりとりには、かなり激しいものがあった。

 たとえば、《ラ・ボエーム》[試聴]はイッリカとジャコーザという二人の作家が台本を担当し、前者の初稿を後者が韻文に仕上げた。それにしても、台本の完成に3年もかかったのは、プッチーニがなにか思いつくたびに徹底的に書き直しを命じたからだ。一例を挙げれば、雪のなかでロドルフォとミミが別れる場面のあとに、ムゼッタの家の中庭でパーティが開かれ、そこでミミが子爵と駆け落ちする、という場面がすでに完成していたが、プッチーニはまるごと削除させている。そんなだから、イッリカは怒り心頭に発し、ジャコーザも一度は台本制作から降りると宣言している。

 こだわりの場面が躊躇なく削られ、練り上げた文章が見るも無残に書き換えられる。プロの仕事への敬意もへったくれもなく、一緒に仕事をする側はたまったものではなかっただろう。しかし、《ラ・ボエーム》の若者たちは原作ではもっと自堕落で、ミミだって削られた場面にあったように、簡単に駆け落ちする女なのだ。でも、プッチーニは物語を理想化したかった。純愛に仕立てたかった。だから作家のメンツなどお構いなしに、台本に徹底的にダメ出しした。

 また、理想化にふさわしい作曲技法を身に着けていた。《ラ・ボエーム》にかぎらず出会いの場面には必ず、甘美な旋律と色彩的な和声を用いた陶酔的な音楽で、プッチーニがこだわる理想の世界へといざなってしまう。そして、いまも叙情的で、甘美で、時に劇的で雄大なその音楽に、客席は心奪われ、むせび泣くことさえあるのは、プッチーニは自分の理想や思いに酔って、台本作家のプライドなど屁とも思わなかったからなのだ。その結果が数々の傑作につながった以上、それでよかったと思うほかない。もちろん、自分がイッリカやジャコーザの立場に立つことだけはご免こうむりたいが。

 こうして妥協せずに追求された作劇のエッセンスが、三つの異なる絵画を組み合わせた三幅対祭壇画のように並べられたのが《三部作》である。これまでのように、一つの作品にさまざまな要素を盛り込むのではなく、対照的な作品がそれぞれ補完しあい、相互作用でなんらかの感興をもたらす、という着眼が新しかった。

1896年《ラ・ボエーム》初演時のポスター

 《外套》[試聴]は、不貞とおぞましい殺人が劇的緊張感をもって描かれ、女声だけを用いた《修道女アンジェリカ》[試聴]では、不義の子を産んだ修道女の悲劇に聖母の許しが与えられて涙を誘う。《ジャンニ・スキッキ》[試聴]は、プッチーニの各オペラにある喜劇的要素の集大成だ。それらはイタリア・オペラの伝統である叙情的な旋律に彩られながらも、初演は1918年。ドビュッシーの近代的和声や色彩感、ストラヴィンスキーの大胆な和声やリズの影響が確実にある。でも、それらが、音楽のわかりやすさは維持したままパワーアップのために用いられているのが、プッチーニのうれしいこだわりである。

 プッチーニは並べて上演されることを望んだ《三部作》だが、現実にはバラバラに上演されることが多く、《三部作》として聴けるチャンスは貴重だ。ちなみに、《外套》も最初はイッリカに書かせておきながら、それを途中でアダミという別の作家に投げている。やっぱり細やかな配慮などができていたら、傑作は残せないのだろう。

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