JOURNAL

20th Anniversary Special Talk

vol. 6 イオアン・ホレンダー(ウィーン国立歌劇場元総裁)× 鈴木幸一

2024年の第20回東京・春・音楽祭を記念し、音楽祭にゆかりのあるアーティストや関係者と実行委員長の鈴木幸一が対談するこのシリーズ。Vol.6のゲストは、創立時から音楽祭のアドバイザーを務め、オペラ制作や上演に関わってきたウィーン国立歌劇場元総裁、イオアン・ホレンダーです。対談は2023年4月、東京・春・音楽祭期間中の東京文化会館で行われました。

 

©︎Michiharu Okubo/東京のオペラの森2005
2005年に上演された《エレクトラ》。デボラ・ポラスキ、アグネス・バルツァ、クリスティーン・ゴーキーらが歌手陣として来日した。

日本から西洋音楽を発信したい

イオアン・ホレンダー(以下ホレンダー) 鈴木さんと初めて会ったのは、長野県松本市だったと思います。私は2002年からウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することが決まっていたセイジより「サイトウ・キネン・フェスティバル松本を絶対に見に来てください」と言われていました。「マツモトってどこにあるの?」と思っていましたが、「3日間だけ時間をとってくれたら大丈夫」とセイジが言うのです。それで1999年、松本へ行きました。セイジが指揮したベルリオーズの《ファウストの劫罰》が素晴らしく、子どもたちの合唱もとても良かった。このオペラは松本城の庭園でも上演されましたが、セイジ自身が解説をしていました。ウィーン国立歌劇場には次世代のオペラファンを育てるために子どものためのオペラ上演の企画がありますが、アイデアは松本での体験から生まれたのです。
この滞在中にセイジ、鈴木さんと一緒に食事をしたと記憶しています。おいしい魚のお店でした。

鈴木幸一(以下鈴木) 当時は自社(インターネットイニシアティブ=IIJ)株をアメリカ・ナスダック市場に上場させた頃でした。
私は若い頃にソ連の監視下にあるチェコに行き、市民がプラハの春音楽祭を心のよりどころにしているのを見て以来、「いつか東京でも音楽祭を」という夢を持ち続けていました。旧知の(劇団四季創設者の)浅利慶太さんや小澤さんと食事を共にした際には、「松本だけでなく東京でも小澤さんのフェスティバルを開催して、海外へ打って出るべきではないか」「日本で新演出のオペラをつくり、欧米の歌劇場でも上演したい。力を貸してほしい」と持ちかけられていました。
 そうこうするうちに、小澤さんとホレンダーさんはどんどん話を進めていましたね。

ホレンダー 日本で生まれたプロダクションを輸出する、それが一番大事なことでした。「東京のオペラの森」で制作した新演出のオペラは、ウィーン国立歌劇場、国立パリ・オペラ座、バルセロナ・リセウ劇場など、ヨーロッパの主要な歌劇場で上演されました。つまり、鈴木さんは日本のオペラ史上初めて、独力で新演出の作品を上演し、ヨーロッパの歌劇場へ輸出なさった方なのです。


「音楽祭は続けることが大事」

©︎青柳聡/東京のオペラの森2010
東京春祭ワーグナー・シリーズ第1弾として選ばれた《パルジファル》。ワーグナー指揮者として信頼の厚いウルフ・シルマーがタクトを振った。

鈴木 音楽祭は2005年にR.シュトラウス《エレクトラ》でスタートさせましたが、早くも2年目に行き詰まりました。ヴェルディ《オテロ》の公演間際になって、小澤さんが病に倒れました。私としては小澤さんが出演できなくても、指揮者の代役をたてて公演するものだと思っていましたが、小澤さんのチームは公演中止にするのが当然だと考えていました。私の常識と彼らの常識は違った。結局上演はしたものの、音楽祭を続けるのは無理だと思い、やめる決意をしました。4000枚ものチケットの払い戻しもありました。4回目までは小澤さんとの約束で作品も出演者もほぼ決まっていましたが、それで終わりにしようと。
そうしたらホレンダーさんと音楽祭のスタッフが、「鈴木さんが好きなワーグナーの《パルジファル》を上演すれば、この先も続けようという気持ちになるのではないか」と結託したんですよね(笑)。
 2010年の《パルジファル》はホレンダーさんがわずかな時間でいいキャストを組んでくれました。ホレンダーさんの力の大きさ、影響力のおかげです。普段は音楽に親しみがない私の友人たちも会場に来てくれました。第1幕で帰るだろうなと予想していたら、最後まで劇場で楽しんで見てくれました。素晴らしい公演でした。
そういうことならば、音楽祭をやり続けることで何かが変わるかもしれないと思って、今に至っています。ホレンダーさんにはこれまで(歌手の)キャスティングで随分お世話になりました。

ホレンダー 鈴木さんは音楽をこよなく愛し、音楽をよくご存知ですので、これまでハイレベルで高名な指揮者や歌手をたくさん招聘されました。芸術的なことは芸術をきちんと分かっている人が決定するべきだと私は思っています。

鈴木 小澤さんが《オテロ》を休演した2006年には、ヴェルディ《レクイエム》の指揮でリッカルド・ムーティさんが来てくれました。それ以来ずっと音楽祭に来てくださっているのはありがたいことです。ムーティさんは「音楽祭は続けることで価値が出てくる。続けることが一番大事なことですよ」と励ましてくれました。その言葉があったので、音楽祭を続けてこられました。



音楽の素晴らしさを感じてもらいたい

©︎増田雄介/東京・春・音楽祭2023
対談時のホレンダーさんと鈴木。

鈴木 私は小学生の頃からNHKラジオでバイロイト音楽祭を聴いていました。親が心配するほど、何時間もじっと。ワーグナーの音楽が大好きでした。今、東京春祭でも必ずワーグナーを演奏していますが、ヨーロッパの音楽祭のようにお金をかけて舞台装置を作って上演するというのは、この音楽祭で行うのはちょっと違うと思っています。演奏会形式で、クオリティの高い歌手と高い水準の音楽をお届けする。東京春祭はこの先もそういう形で上演するのがよいのではないかと思っています。

ホレンダー ヨーロッパのオペラは本当に悲劇的な演出が多いですからね。特にドイツ。イギリスもそうですね。だからみんな目を閉じて、音楽だけに集中する。だったら演奏会形式にしたほうがいいですよ、絶対に。

鈴木 日本は長い間、数多くの海外の舞台作品の引っ越し公演を招聘してきました。しかし、大々的な引っ越し公演を呼んでくるのは経済的にも難しくなってくると思います。だから、質の高い演奏会形式の演奏会を続けていくことで「新しい何か」を得られるのではないかと真剣に考えています。

ホレンダー その通りです。

鈴木 2023年の演奏会形式での《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のような素晴らしい演奏を聴くと、改めてワーグナーってすごいなあと実感します。私はバイロイト音楽祭を現地で見ていても、演出が嫌になって途中で出たくなることもあります。(バイロイト音楽祭総監督の)カタリーナ・ワーグナーには、東京春祭でも子どものためのワーグナー公演を続けてもらっているから、申し訳ないなと思うのですが。

ホレンダー 彼女のお父様ウォルフガングとはとても親しかったこともあり、私がカタリーナを2017年の東京春祭での《神々の黄昏》によんで、鈴木さんにご紹介しましたね。お父様からは「バイロイト音楽祭のために、5月、6月にウィーンの歌劇場で契約している歌手もフリーにしてもらえないか」という手紙をいただき、私はその申し出に応じました。バイロイトは私にとって聖地ですから。
バイロイト音楽祭も意思決定は1人が担っています。鈴木さんとワーグナーはそういう意味でやり方が似ているかもしれません。


©︎増田雄介/東京・春・音楽祭2023
1935年生まれのホレンダーさん。拠点としているオーストリアから、東京春祭に足しげく通って下さる。

東京の春のお祭りとして育ってほしい

鈴木 私は残念ながら音楽の才能がなかったので、得意な数学を生かしてコンピューターの道に進み、起業しました。インターネットがなければ、この音楽祭を始めることもなかったでしょう。音楽祭は徐々に浸透し、今では経済界から多くのサポートを得られるようになりました。大きな輪が広がっています。

ホレンダー 音楽祭ももう20年ですね。幼い頃から東京へ連れてきていた私の息子も、今では歌手として舞台で歌うほどに成長しました。

鈴木 息子さんを見ていると、私もおじいちゃんになったなあと思いますよ。

ホレンダー 鈴木さんはオーストリアと日本の音楽関係においての功績が評価され、2022年にオーストリア政府より勲章(オーストリア共和国有功大栄誉章)を贈られました。ウィーンのテレビ局が日本まで取材に来て、東京・春・音楽祭の模様を撮影してオーストリアで放送したこともありましたね。鈴木さんは、オーストリアと日本、ウィーンと東京の素晴らしい架け橋になりました。私も2010年に日本政府から勲章をいただきました。鈴木さんは半分オーストリア人、私は半分日本人だと思っています。

鈴木 私が今、気になるのは東京春祭のこれからのことです。この先も続けていくためにどうすればよいか、しばしば考えます。

ホレンダー フェスティバルは祝祭という意味ですから、それにふさわしいものであってほしいですね。

鈴木 東京春祭は、桜のフェスティバルです。これからも、上野の地元のみなさんと一緒になって、お祭りのような音楽祭を目指したいと願っています。


取材・文:出水奈美

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