JOURNAL

プッチーニ集
2022/11/08

カラスの《トスカ》

カラスの《トスカ》

文・鈴木淳史(音楽評論家)

マリア・カラス(1923-77)

絶頂期のカラスが聴ける《トスカ》
 予算が厳しくなると、《トスカ》の演目が増える。真偽のほどは定かではないが、よく耳にする歌劇場あるあるネタだ。
 《トスカ》は、主要登場人物は三人だけで、合唱の登場も少ない。舞台装置も大掛かりなものは必要ない。それにもかかわらず、これほどまでに緊張感あふれるドラマティックなオペラは多くない。魅力的なアリアだってある。確かに、歌劇場にとってコストパフォーマンスに優れた作品といっていいのかも。
 ただ、それだけに主要役を歌う三人の歌手への比重が大きくなる。オーケストラから強い表現力を引き出せる指揮者も必要だ。
 1953年8月、ミラノ・スカラ座で収録されたモノラル録音が長いあいだ愛好されてきたのは、やはり三人の歌手があまりにも強力だったからだろう。カヴァラドッシ役のジュゼッペ・ディ・ステファノの力強く輝くテノール。ティト・ゴッビの歌うスカルピアはほれぼれするほどの悪役っぷりを聴かせてくれる。そして、タイトルロールを歌うマリア・カラス。その絶頂期にあたる歌唱の燃え上がるような情感。さらに、ヴィクトル・デ・サーバタ指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団のエネルギッシュなサウンドも加わる。彼らの演奏によって、この《トスカ》というオペラの真髄が明らかになったといっても過言ではない。


《トスカ》の物語
 オペラの舞台になっているのは、1800年6月のローマ。自由主義者の画家カヴァラドッシは、教会でマグダラのマリア像を描いている。彼は恋人である歌姫トスカを思いながら、アリア「妙なる調和」をリリックに歌う。《トスカ》のアリアは、短いながらも印象的な旋律が多い。
 牢獄から逃亡してきた同志アンジェロッティが教会に潜んでいるのにカヴァラドッシは気づき、彼をかくまうことに(もしヴェルディならばここでBL感あふれる二重唱などを書いたはずだが、異性間の交渉にしか興味がないプッチーニはわりと淡泊だ)。そこに現れたトスカは、恋人のカヴァラドッシが隠し事をしていることを察し、他の女性の存在を疑う。
 逃げたアンジェロッティを追って、警視総監スカルピア男爵が教会にやってくるが、アンジェロッティはカヴァラドッシと共に画家の別荘へ移動したあとだった。そこに戻って来たトスカとスカルピアのやり取りは、二人の人物像を巧みに映し出す。
 トスカは嫉妬の感情をたぎらせている。カヴァラドッシの密会の相手を詮索し、「彼女に違いない」と言葉を発するときのカラスの地を這うような低音。その身の毛もよだつ恐ろしさ。人間の感情の振り切った姿を描くことで、このオペラは凄味をたっぷりと帯びる。
 一方、スカルピアは体制側の番人として、自由主義者を取り締まることに血道をあげる。同時に、魅力的な女性であるトスカを征服しようとも画策している。彼は暴力を最大限に使い、自らの支配欲を満たす。獲物をモノにするための情熱の量がすさまじい。ゴッビの細やかな歌唱は、この権力に囚われた情念を見事に描く。この暴君の沸騰した欲望と、合唱のテ・デウムの荘厳な音楽が重なる、怒濤のような音楽で最初の幕は締めくくられる。
 第2幕は、スカルピアの公邸。カヴァラドッシが連行され、同志の居場所を問われて拷問を受ける。そこに現れたトスカは、恋人の苦痛の声を耳にし、ついアンジェロッティの隠れ場所を漏らしてしまう。スカルピアは、カヴァラドッシを解放する条件としてトスカに一夜を共にすることを求める。歌姫は迷った末それを承諾、アリア「歌に生き、愛に生き」を歌う。嫉妬深かった彼女が、これまでの歌に生きてきた人生を振り返りつつ、苦悩の真っ只中にあることを切々と訴える。このアリアからわかるように、彼女は完全には絶望していなかった。「これがトスカの接吻よ」との言葉と共に彼女はスカルピアを刺し殺す。
 最終幕。カヴァラドッシの処刑が行なわれようとしている。彼がそこで披露するアリア「星は光りぬ」は、やはり絶望した境遇を歌うが、トスカのアリアと違って諦念がすがすがしいほどに美しい。そこにトスカが登場、処刑は偽装で済まされ、その後に二人で逃亡することを恋人に伝える。喜びを取り戻した恋人たちの愛の二重唱のまぶしいことよ。
 続く処刑のシーンは、どこか明るく、コミカルでさえある。新しい世界への門出のよう。ところが、偽装だったはずの処刑は本当に行なわれてしまい、カヴァラドッシは死亡。ここでの音楽の急展開はすさまじい。悲嘆に暮れる間もなく、スカルピアの兵士たちがトスカに迫る。トスカは城の屋上から身を投げる。
 主要登場人物はみな死んでしまうが、優れた演奏であればあるほど、さほど陰惨な感じはしない。トスカにせよ、スカルピアにせよ、それぞれの燃え上がる感情の炎そのものに、飲み込まれてしまったような印象を与えるからだ。自らが燃え尽きるほどの情念のすさまじさに心打たれるばかり。カヴァラドッシだけは、その巻き添えになったようで、少々気の毒ではあるけれど。

カラスのラスト・レコーディング
 カラスの《トスカ》全曲録音はもう一つある。1964年から翌年にかけて行なわれたステレオ録音だ。オペラからの引退を表明したカラスが、最後のレコーディングに選んだのがこの作品だった。第2幕のアリア「歌に生き、愛に生き」は、まさに歌姫の自らの境遇と重なって心を打つ。すでに彼女は絶頂期の声を失っていた。スカルピア役のゴッビはさらに重厚さを増し、パリ音楽院管弦楽団を指揮したジョルジュ・プレートルは、サーバタのような圧倒的な熱さはないものの、独特の淫靡さでこの心理劇を濃密に描き出している。

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