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英国が誇る世界最高のバス・バリトン

英国が誇る世界最高のバス・バリトン

文・石戸谷結子

レッド・ドラゴンに護られて
 もうはるか昔のことだが、1995年の1月、ミラノ・スカラ座でブリン・ターフェルのリサイタルを聴いた。プログラムの詳細は覚えていないのだが、コンサートの後半にはウェールズのフォークソングを歌った。ターフェルは1990年にプロの歌手としてオペラにデビューしているから、スカラ座でのリサイタルは初だったのだろう。オペラハウスの2階や3階の桟敷席には「レッド・ドラゴン」のウェールズ国旗を掲げた賑やかな応援団が陣取っていて、会場は熱気に溢れ、ターフェルは手を振って応えていた。ターフェルの故郷ウェールズはラグビーも強いけれど、勇壮な男声合唱が盛んで、国歌の「わが父祖の国」は特に有名だ。ウェールズに伝わるフォークソングも多く、「歌の国」と呼ばれているという。ターフェルはウェールズの伝承歌を集めた『歓迎しよう』というアルバムをリリースしていて、その中で「ウェールズ人の血潮には音楽が流れ、心には詩魂が溢れている」と語っている。
 彼の名を一躍有名にしたのは1989年のBBCカーディフ国際声楽コンクール。故国で開かれたこのコンクールで歌曲賞の勝者となった。でも総合で1位になったのは、なんとロシアからやってきたディミトリー・ホロストフスキー。二人は大接戦になり、24歳のターフェルにはその年に創設された歌曲賞が授与されたのだ。以後、二人ともに世界最高のバリトンとして活躍を続けることになる。

悪役と大男
 ターフェルが初来日したのは1992年。この年英国ロイヤル・オペラに《ドン・ジョヴァンニ》のマゼットでデビューし、同年のロイヤル・オペラ日本公演にも同行してマゼットを歌った。26歳という若さでの初来日で、朴訥としたキャラクター作りと朗々とした若々しい美声が印象に残った。キャリアの初期にはモーツァルトを歌うことが多かったが、初めて本来持っている得体の知れない怪物性? を発揮したのが、1992年8月のザルツブルク音楽祭での《サロメ》だった。彼は193センチの巨体に長髪を波打たせた神秘的なヨカナーンを演じた。リュック・ボンディの暗く底知れない雰囲気の演出とクリストフ・フォン・ドホナーニの名演が話題になった(1997年英国ロイヤル・オペラでの再演がDVDに)。
 以後は舞台でのキャリアを積み重ね、しだいに「悪役」や「大男」のキャラクターで、オペラ界での存在感を高めていく。もともと演技力があり、バッソ・ブッフォ的な役作りも得意なので、フィガロやレポレロ、ドゥルカマーラやドン・パスクワーレを演じたが、1999年には大ヒット役に巡りあった。体型を生かした《ファルスタッフ》である。この年リニューアルされた英国ロイヤル・オペラ・ハウスでオープニング記念として上演されたのだ。指揮はベルナルト・ハイティンク、アリーチェはバルバラ・フリットリというキャストで、BBCを通じて世界中に配信され、DVDにもなっている。彼のユーモラスなファルスタッフは2001年のザルツブルク音楽祭で、ロリン・マゼールの指揮で観ることができた。
 ターフェルには悪役が似合う、と実感したのは、2011年7月に英国ロイヤル・オペラで彼がスカルピアを歌った《トスカ》を見た時だ。アントニオ・パッパーノの指揮、アンジェラ・ゲオルギューとヨナス・カウフマンのゴールデン・コンビで大スターが3人揃った話題の公演だった。ターフェルのスカルピアは本当に怖かった。充分な声量と低音の効いた朗々たる美声の持ち主なので、あたりを睥睨するほどの凄みがあり、男爵としての揺るがぬ品位もある。これまで聴いた最高のスカルピアだと思った。
悪役としては《ホフマン物語》の悪漢4役や、《放蕩児の遍歴》の悪魔ニック・シャドウ、悪役の一人?であるドン・ジョヴァンニも歌っている。これはDVDで観たのだが、英国ロイヤル・オペラで上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出の《ファウスト》でのメフィストフェレス。この時の演技力には驚愕した。さすがはシェイクスピアの国の歌手、堂々たる不気味な悪魔ぶりで圧倒的な存在感を示した。

ワーグナーに挑戦、最高のヴォータン
 2000年を過ぎた頃から、ワーグナーにも進出した。《タンホイザー》のヴォルフラムも演じているが、2006年には《さまよえるオランダ人》のタイトルロール、ウェールズ・ナショナル・オペラでは2010年に《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のハンス・ザックスも演じた。ロイヤル・オペラでは《ニーベルングの指環》のヴォータンを歌ったが、彼の実演に接したのはメトロポリタン歌劇場での《ワルキューレ》のヴォータンだった。ロベール・ルパージュが演出したスペクタクルなプロダクションで、忘れもしない2011年の4月22日、まさに公演の初日にメトに駆けつけたのだ。ジェームズ・レヴァインの指揮で、他のキャストはジークムントがヨナス・カウフマン、ブリュンヒルデがデボラ・ヴォイトという顔ぶれ。ターフェルは銀色の鎧を着け、またも波打つ長髪をなびかせて、長い槍を持っての登場。2幕ではフリッカに頭の上がらないヴォータンを演じ、2幕の最後では愛する息子との別れ、3幕では愛娘ブリュンヒルデとの別れの場を、人間的な情感を持って演じた。特に3幕のクライマックス、「輝く二つの瞳よ」のアリアでは、父の悲哀をしっとりと切々と歌いあげた。
 ワーグナーに次いで新しい役にさらに挑戦した。2016年にロイヤル・オペラにおいて、パッパーノの指揮で《ボリス・ゴドゥノフ》のタイトルロールを歌ったのだ。ロシア語という難しい原語での上演。この役でも最後は幼い息子との別れの場面を見事に演じた。

「Opera Night」プログラム
 今回のブリン・ターフェル「Opera Night」では、ワーグナーから3曲が歌われる。《ニュルンベルクのマイスタージンガー》から、ザックスの「ニワトコのモノローグ」、《タンホイザー》から「夕星の歌」、そして《ワルキューレ》から幕切れの名アリア。娘ブリュンヒルデとの辛い別れ「さらば、勇敢で気高いわが子よ」に始まり、ローゲを呼び出し、「この槍の穂先を恐れる者は、決してこの炎を恐れるな」まで、壮大な《リング》のクライマックス場面「ヴォータンの告別」が演奏される。いずれもターフェルがこれまで歌ってきたお得意のアリアであり、いまの彼の声に合った曲ばかりだ。興味深いのは悪役の中の悪役、ヤーゴの有名な「クレード」(「ヤーゴの信条」)が歌われること。ターフェルはリサイタルなどではたびたびこのアリアを歌っている。ボイトの《メフィストフェレ》からのアリア、「私は悪魔の精」は、メフィストフェレスがファウストの前に姿を現す時に歌う皮肉な歌。まさに悪魔役がぴったりなターフェルの得意曲だ。《フィデリオ》からは悪役ドン・ピツァロの登場のアリア。勇壮な行進曲のあとで、手下を従えて現れるピツァロのキャラクターを象徴したアリア。最後の《三文オペラ》の「メッキー・メッサーのモリタート」もまた悪漢の歌。「マック・ザ・ナイフ」のタイトルでも知られるこれも皮肉たっぷりの曲。ワーグナーの他はすべて悪役の歌となるので、ターフェルの悪漢ぶりが楽しめる。

もう一つのターフェルの顔
 ターフェルはこれまで15枚以上というリサイタルやアリア集のディスクをリリースしている。モーツァルトばかりを集めたもの、ヘンデルのアリア、ワーグナー・アルバムなど。また、ミュージカルのナンバーを集めたアルバムや、ウェールズのフォークソングのアルバムなど、そのレパートリーは多岐にわたっている。舞台でもスティーヴン・ソンドハイムのミュージカル《スウィーニー・トッド》やブロードウェイのミュージカルで知られる《屋根の上のヴァイオリン弾き》のテヴィエを演じており、ジャンルを超えた活躍を行なっている。さらに、ドイツ・リートのアルバムもリリースしていて、シューマン歌曲集やシューベルト歌曲集が出ている。2000年には故郷の北ウェールズで、クラシック音楽とポピュラーの融合を目指した「ファイノル・フェスティヴァル」を創設している。これら音楽界における多彩な活動に対し、2003年には大英帝国勲章(CBE)を、2017年にはナイトの爵位を授与されている。
 じつは初来日の時にインタビューさせていただいたのだが、まさに豪放磊落、なんとも陽気な若者だった。しかし年齢を経るにしたがって、しだいに沈着冷静な渋くていい男に変身を遂げている。
ブリン・ターフェルは、充分な声量と深みのある美声、そして抜群の演技力を備え、人間的な温かみを持つ、英国が誇る世界最高のバス・バリトンなのである。

(「東京・春・音楽祭2022」公式プログラムより転載)
石戸谷結子 Yuiko Ishitoya

音楽評論。早稲田大学卒業。音楽出版社を経て、1985年からフリーランスとして活動。『音楽の友』、『モーストリー・クラシック』誌などに執筆。NHK文化センターなどでオペラ講座を担当。著書に『マエストロに乾杯』、『オペラ入門』ほか。




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