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異国趣味から生まれたプッチーニのオペラ

異国趣味から生まれたプッチーニのオペラ

文・小林伸太郎(音楽ライター。ニューヨーク在住)

プッチーニ(左)と、《蝶々夫人》や《トゥーランドット》の初演を指揮したアルトゥーロ・トスカニーニ。(1910年)

未開の東洋に題材を求めた西欧の芸術家
 異国趣味(Exoticism)という言葉がある。一般に、15世紀から17世紀の大航海時代を経たヨーロッパにアジアやアフリカのものが大量に流入するようになり、ヨーロッパ以外の文化をヨーロッパが取り込もうとした動きを意味する。つまりそれは、ヨーロッパから見た「異国」に対する「趣味」ということだ。とりわけオリエンタリズム、東方趣味とよばれる芸術作品や研究は、近世ヨーロッパにおいて数多く生み出された。
 17、18世紀のヨーロッパでは、まず中国への興味がシノワズリとして隆盛を見た。そして19世紀後半には、万国博覧会に日本のものが出品されたことなどが契機となって日本美術が注目されるようになり、ジャポニズムがヨーロッパを席巻した。しかし1920年代までには、日清・日露戦争などの「戦勝国」として国際社会に進出する日本に対してヨーロッパ列強が警戒を強めるようになった政治的背景も重なり、ジャポニズムは衰退する。これに代わるように、シノワズリが復活した。
 プッチーニの1904年に初演された《蝶々夫人》と、彼の死後にアルファーノ補筆版によって1926年に初演された《トゥーランドット》の登場も、このオリエンタリズムのタイムフレームに一致する。(ちなみに異国趣味ということでは、プッチーニは米国という異国に触発された《西部の娘》という作品を、《蝶々夫人》と《トゥーランドット》の間の1910年に発表している。)
 東洋に対する趣味に新境地を開く原動力を求めたヨーロッパの芸術家は、もちろんプッチーニだけではない。世界を西洋と東洋に分ける考え方を「発明」した西洋は、不可思議で神秘的、もしかしたら未開の東洋に題材を求めた芸術を、近世ヨーロッパで開花させた。
 音楽だけに限っても、例えば中国の詩に触発された作品を残したマーラー、日本の浮世絵に魅せられたドビュッシーなどをすぐに思い浮かべる人は多いだろう。オペラやオペレッタの世界では、日本を舞台とするギルバート・アンド・サリヴァンの《ミカド》(1885年初演)やマスカーニ《イリス》(1898年初演)、中国を舞台とするストラヴィンスキー《うぐいす》(1917年)、ブゾーニ《トゥーランドット》(1917年初演)、レハール《微笑みの国》(1929年初演)など、少なくない。

エドワード・サイード

オリエンタリズムとは
 このような東洋に触発された作品、とりわけ近代ヨーロッパで生まれた劇場作品を今の時代に考えるとき、作品に内包される「オリエンタリズム」の問題を無視することはできない。
 パレスチナ系アメリカ人の文化および文学の批評家、エドワード・サイードは、1978年に発表した著書『オリエンタリズム』で、いわゆる東洋を理解・表現する西洋の思考様式として、オリエンタリズムを雄弁に理論化した。ちなみにサイードが同著書で扱うオリエントは、主として中近東、北アフリカのイスラム的オリエントであるが、オリエンタリズムという言葉自体は、いわゆる極東も含むアジア全般について語る際に使われる。
 サイードが論考したオリエンタリズムは、西洋と東洋は根本的に異なるものとして区分し、異質であることを大きな魅力として捉える。そしてオリエンタリズムは、アジアを風変わり、奇妙、異なるという意味で、エキゾチックなものとして捉える。そして「オリエント」は、西洋の興味のために消費あるいは流用されるための基本的に異なるオブジェクトとして見なされる。
 さらにここでは、西洋と東洋の力関係が、しばしば性差、性的対象としてのコンテクストで捉えられ、女性化(feminization)が起きるのも、オリエンタリズムの特徴だ。西洋は典型的に、白人の男性パワーとして捉えられ、東洋は(か弱い)女性的なものとして捉えられる。プッチーニの《蝶々夫人》は、その典型的な例として頻繁に挙げられる。《トゥーランドット》のカラフは、ペルシアの王子ということだが、その姿は東洋にとっては「異国」である西洋そのもののように感じられる。口づけとともに夜明けには勝利を勝ち取ると歌い上げるカラフは、西洋的な「愛」を執拗に押し付け、トゥーランドットの苦しみに思いを向けない。(少々脱線するが、何年も前に少女ソプラノ歌手が「誰も寝てはならない」を歌ってヒットしたことがあったが、あれは非常に悪趣味だと思う。)
 オリエンタリズムはまた、様々な国々・文化を含むアジアをオリエントとして均一化して捉える傾向がある。ここでは、日本だろうが、中国であろうが、韓国であろうが、全ては同じもの、あるいは似たようなものとなる。東アジア、東南アジア、中東でさえも、大局的に「オリエント」として捉えられてしまう。例えばスズキが祈る時に鳴らす鈴(りん)が《トゥーランドット》の方が似合いそうな銅鑼まがいのものだったり、バタフライの家の庭がなんとなく中国風であったりするプロダクションは、少なくともアメリカでは未だに少なくないと思われる。ゼフィレッリの有名な《トゥーランドット》のプロダクションも、中国人にとってはあり得ない衣装があり得ない役柄に着せられていたりするというが、いまだにメトロポリタン・オペラのドル箱である。
 5年ほど前、韓国人のある著名テノールをインタビューした際、彼は《トゥーランドット》のカラフを歌うことを長いこと避けていたと語ってくれた。カラフはペルシアの王子とされているが、アジア人というだけでカラフにキャストされ、声を早くに失ってしまうアジア人の同僚を彼は何人も見てきたという。アジア人ソプラノにとってバタフライが同様の役であることは、ご存知の方も多いだろう。これらのオペラはアジア人歌手の雇用機会を意味する可能性がある一方で、一度引き受けると、それ以外の役にキャストされにくくなるという、鬼門にもなりかねない。

文化の盗用(Cultural Appropriation)とパンデミックを経験したこれから
 コロナウイルスのパンデミックは、世界の様々な問題を顕在化させた。アジア人全般に対する根強い差別の顕在化もその1つだったが、これを驚きと捉えるか、さもありなんと捉えるかは、その人の置かれた社会的な立場、住む場所などによって大きく異なると思われる。少なくともニューヨークに住む筆者にとっては、肌感覚で感じられる脅威であった。カリフォルニア大学サンフランシスコ校による研究によると、ドナルド・トランプ前大統領が「中国のウイルス」とツイートした後、アンチアジアのハッシュタグを含んだコロナウイルス関連のツイートが急増したという。
 とりわけ米国の音楽界では、アジア系ミュージシャンに対する構造的差別に対して声を上げる動きが高まった。オリエンタリズムに触発された芸術作品の取り扱いに関しても、いわゆる「文化の盗用(Cultural Appropriation、支配的な立場にある文化が、マイノリティーの文化から同意を得ずに比較的重要な何かを奪うことという意味で使われることが多い)の視点などから見直そうという動きが高まっている。例えば米国の中堅オペラカンパニーの1つ、ボストン・リリック・オペラは、2021年秋に予定されていた《蝶々夫人》の上演をキャンセルし、「多民族の観客のためにこの作品を生かし続ける」方法を探るためというディスカッション・フォーラムを立ち上げた。
 数年前にメトロポリタン・オペラで観た《トゥーランドット》では、リューが死んだ後のカラフとトゥーランドットの二重唱で、カラフはトゥーランドットに接吻を無理強いしなかった。これはもしかしたら、#MeTooムーヴメントを経たセンシティビティであったかもしれないが、作品に対する視線は時代によって変わることを強く感じた一瞬であった。オリエンタリズムに影響された芸術作品に対する我々の態度も、パンデミックを経た国際社会において、同じように変わらざるを得ないはずだ。果たして本当に変わるのか、筆者もアジア人としてしっかり見つめていきたい。



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