JOURNAL

東京春祭 歌曲シリーズを彩る綺羅星のごとき歌手たち

〜マルクス・アイヒェ、アンドレアス・シャーガー、クリスティアン・エルスナー、エリーザベト・クールマン

文・松平あかね(音楽評論)

 歌曲は奥が深い。たとえ「いまさら何を…」と言われても、何度でも強調せずにはいられない。歌曲には無限の奥深さがある、と。
 歌曲とは、古今の作曲家たちがみずからの創造力をよりどころに、詩をひとつひとつ音に起こしていった軌跡である。聴き手は言葉と音楽を通して、詩人そして作曲家の魂とじかに触れ合う。そして作品の中から暗喩やメッセージを受け取ることができた時の、ひそやかな深い歓びたるや…。この至福を得るために、誰で聴くかが重要になる。当然のことだ。作曲家と聴き手の橋渡しをするのが、どのような演奏者であるかによって、伝わる内容は全く変わってしまうのだから。
 今年も東京・春・音楽祭に綺羅星のごとき歌手たちが集い、歌曲シリーズでもその至芸を聴かせてくれる。コンサートやオペラで目覚ましい活躍を続ける歌い手が、その身ひとつで聴衆の前に立ち、ピアニストと共に作品の精神を伝えてくれる。なんと贅沢な話だろう。

 さて、今年の東京春祭ワーグナーシリーズ vol.11《トリスタンとイゾルデ》でクルヴェナールを歌う、バリトンのマルクス・アイヒェが、東京・春・音楽祭の歌曲シリーズに再び登場する。アイヒェは昨年もバイロイト音楽祭の《タンホイザー》(新制作)でヴォルフラムを歌い、英国ロイヤル・オペラやメトロポリタン歌劇場にもデビューを果たすなど、着実にキャリアを積み上げているところだ。朗々とした声、安定した歌唱力を周りが放っておくはずがない。けれども彼はもともと歌曲にも定評がある。しかもこの度のプログラムは、ブラームスの連作歌曲「ティークの〈マゲローネ〉によるロマンス」ときた。若き騎士と美しい王女マゲローネの恋の行方を語る、ロマンティックな一大冒険譚である。アイヒェの瑞々しい声とスケールの大きな歌唱には、うってつけではないか。しかも語りは俳優の奥田瑛二という豪華なキャスティング。クリストフ・ベルナーのピアノとの三つ巴で、どのような化学反応が起きるのか見逃せない。

 東京春祭《トリスタンとイゾルデ》公演からもう一人、トリスタン役を歌うアンドレアス・シャーガーも歌曲シリーズに登場する。彼はいまや、世界中で引っ張りだこのヘルデンテノール。よほど強靭でしなやかな体幹を持っているのだろう、声は切れ味鋭く、若々しい。それに加え、本能を解放する喜びに満ちた、怖いもの知らずの歌いぶり。このまっさらな強さを目の当たりにすると、驚嘆と爽快さの入り混じったような不思議な気持ちになる。とはいえ彼はワーグナーもモーツァルトも歌うし、コンサート活動からも離れていない。きちんとバランスをとっているあたり、やはり知的な歌い手なのだ。
 そんな彼が選んだのは、今年生誕250年のベートーヴェン《遥かな恋人に》や、シューマンの《詩人の恋》。およそ青春の全てがあると言って過言ではない作品たちである。作曲家たちが音楽に込めた、驚くべき発想や仕掛けを拾い上げるのはもちろんのこと、愛の喜びも、時には心の内奥のダークサイドも見つめなければならない。演奏家と聴き手の感性を大いに刺激する作品だが、シャーガーは今回どのようなアプローチをしてくるのだろうか。大劇場では見たことがないような、彼の新たな一面を見ることができるかもしれない。共演がリート界の超大物、ヘルムート・ドイチュというのも望外の喜びだ。

 さて今回は、東京春祭 合唱の芸術シリーズ vol.7 ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》に出演するソリストも、歌曲シリーズにお目見えする。まずはクリスティアン・エルスナーをご紹介したい。端正な声質と安定した歌唱力を持つテノールで、ワーグナーでは《パルジファル》の題名役を持ち役としているが、昨年はバーリのペトルッツェリ劇場で《ワルキューレ》のジークムントを歌っている。東京春祭でも歌う《ミサ・ソレムニス》は歌唱パートの過酷さがよく知られているが、同曲は2020年2月にハンブルクでも歌う。
 歌曲でも地歩を固めているエルスナーは今回のリサイタルでシューベルトの《冬の旅》を携えてきた。彼には同曲の録音もあるが、淡々とした距離感から一気に一人称になる描き分けが鮮やかだった。これまでに《ラインの黄金》のローゲや《ヘンゼルとグレーテル》の魔女など、かなりの芸達者でなければ務まらない役柄も歌ってきたし、後進も指導し、本も執筆し、コンサート活動もすれば歌曲も録音…と八面六臂の活動をしている人である。様々なパレットを持つ歌い手ならではの複眼的なアプローチなのだろう。共演は、巨匠の風格が出てきたゲロルト・フーバー。彼との協働で今回はどのような「旅」になるか注目したい。

 さて最後にご紹介するのは《ミサ・ソレムニス》に出演するもう一人のソリスト、そして今回の歌曲シリーズの紅一点でもあるメゾ・ソプラノのエリーザベト・クールマンである。花も実もある歌手としてオペラでの活躍が期待されている最中に、彼女はコンサートの世界にひらりと身を翻した。既存の枠にとらわれることを良しとしない彼女は、磨き抜かれたテクニックと天性の花、そして自由な発想を加えた独自のプログラミングでファンを魅了している。今回のリサイタルのタイトルは「”Tell me...” おとぎ話と物語、バラード」。選んだ作曲家はブラームス、シューベルト、レーガー、ヴォルフ、リスト、レーヴェ。曲名をざっと眺めただけでも、サッフォーやタルタロス、アトラスにオーディーン…と、胸躍る名がひらめいている。これだけの作品をさらりとした風情で差し出せる歌手は、世界中を見回してもそう多くはない。共演はエドゥアルド・クトロヴァッツ。あのクールマンをのせられる柔軟さと包容力があり、時には色気も滲み出る魅力的なピアニストである。
 ところで、リートは姿勢を正して聴くものだと思っている人は、今すぐ考えを改めた方がいい。彼女がいざなう歌曲の世界は、大興奮すること間違いなしなのだから。




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