JOURNAL

上野街歩き
2010/02/15

歩いてみよう、上野界隈

第一回「寛永寺、上野公園」

コンサートの日、少し早めに家を出て、春の上野を散策してみると、新たな出会いがあるかも----。
ここでは、4回にわたって、情緒あふれる上野とその近隣の街を紹介します。第1回は「寛永寺、上野公園」編です。

文・網倉俊旨

上野の山は比叡山、不忍池は琵琶湖?

 いまの上野公園がある上野の山一帯は、江戸時代はすべて寛永寺の敷地でした。かつての寛永寺は、およそ35万坪あまりの広大な緑あふれる境内に30棟以上の堂塔伽藍や子院が建ち並ぶ、文字通りの巨刹でした。
 寛永寺というと、一般には徳川家の菩提寺という印象が強いかもしれませんが、最初は祈願寺としてつくられた寺でした。しかし、寛永寺が建立された寛永2(1625)年当時、すでに江戸には徳川家の祈願寺として浅草寺がありました。
 では、どうして、この上野の地に新たな祈願寺として寛永寺がつくられたのでしょうか。
 簡単にいえば、寛永寺は京都の比叡山延暦寺を江戸に移すという発想のもとに造営された寺だったのです。上野は江戸城の鬼門の位置に近く、山地をなし、琵琶湖にあたる不忍池もあるなど、地取りとして比叡山と類似するものがありました。そこで、山号を東の比叡山という意味で「東叡山」と名付け、寺号も延暦寺が時の年号から採ったことに倣って「寛永寺」としたわけです。

 このプラン作成にあたって最も重要な役割を果たした人物が、寛永寺初代住職の天海です。家康のブレーンとして江戸幕府初期の宗教政策に関与したことでも知られる天海は、さらに寛永寺の境内に、清水寺の観音にあたる清水観音堂、八坂の祇園様(現在の八坂神社)にあたる祇園堂、東山方広寺大仏を模した大仏像、そして、琵琶湖竹生島の弁財天に倣った不忍池の弁天堂などを、次々につくっていきました。
 上野の歴史にも詳しい寛永寺の浦井正明執事長は、「寛永寺は江戸城の『鬼門ふさぎ』というよりも、延暦寺の『見立て』という意味合いが強かったのだと思います。天海は上野という地を江戸庶民のための名所にしたかったのではないでしょうか」と語っています。
 天海が吉野山の桜を上野の山に移植したのも、まさにそうした名所づくりの構想のひとつだったのかもしれません。桜だけでなく、現在の中央噴水の周辺の赤松、不忍池の蓮、紅葉や寒椿など、上野の山全体の植生を計画したのも天海です。これらに月見や雪景も加わり、寛永寺はたちまち江戸でも屈指の観光名所のひとつとなりました。
 現在も、四季を通じて訪れる多くの人々でにぎわう上野公園。その礎を築いたのが、天海だったのです。
※内容は掲載当時の情報です。

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