JOURNAL

演奏会形式でオペラを聴くのは至福の時

文・東条碩夫(音楽評論)

©︎平舘平/東京・春・音楽祭2024より《トリスタンとイゾルデ》

 幕が開くと、舞台のあちこちにうずくまる避難民のような姿をした人々。明らかに日本人のような雰囲気だ。その人々に、防護服を着た男たちがガイガー・カウンターを当て、さらに除染作業をして回っている。放射能汚染検査だ。背景のスクリーンには津波と、破壊された街の光景が映し出され、その中には何と「気仙沼市」の字さえ見える。
 いったい、何のオペラの舞台か? 実はこれは、2012年にバイエルン州立歌劇場で上演されたアンドレアス・クリーゲンブルク演出によるワーグナーの「ニーベルングの指環」ツィクルスの最終幕、「神々の黄昏」冒頭の「ノルンの場面」なのである。3人の運命の女神たちが世界の終末を予言する場面の光景として、この演出家とバイエルン・オペラは、前年の東日本大震災を早くもネタにしていたのだ。
 私はとても耐え切れず、途中から目を閉じてしまった。これならいっそ音楽だけ聴くコンサートに来た方がどれほどいいか、とさえ思った。結局この場面が終るまで、いや次の場面に移ってからも、あれほど好きなはずのワーグナーの音楽が、しばらくはほとんど耳に入らなかったほどである。
 ━━こういうケースはしかしまあ、極端な例である。ここまで音楽を聴くことを妨げる演出に出逢ったことは、後にも先にもない。しかしそもそも、経験を積んだ筋金入りの観客であれば、いかなる変な舞台でも、たとえ謎解きのような演出であっても、自らの中で音楽とのバランス感覚を失わずにオペラを堪能することができるはずなのである。私自身も、オペラの舞台はあくまで演劇的に完璧でなければならない、という主義だし、ちょっとやそっとの読み替え演出にも驚かず、むしろそれらを歓迎する「筋金入りの端くれ」だという自信を常々持っていたのだが、前述のような心を痛めつけられる極端なケースに出逢っては、そんな自信も実にあっけなく崩れ去ってしまうのだった。

©︎池上直哉/東京・春・音楽祭2024より《エレクトラ》


 たまたまそんな演出に出逢ったからと言って、オペラはやはり舞台上演よりも演奏会形式の方がいい━━などという極論に走るつもりは全くないのだが、その音楽があまりに素晴らしい場合には、それから気をそらされることなく、音楽(ナマの)だけにたっぷりと浸ってみたい、と思うことがよくあるものだ。視覚的な要素に妨げられず、ややこしい演出の意味に気を取られて考え込んだりすることもなく、あるいは単純でつまらない演出に苛々させられることもなく、ひたすら音楽そのものに没頭する。そして作曲技法に感嘆したり、モティーフの交錯の妙味や和声と旋律の美しさに心から酔ったりすることができたとしたら、それはいかに至福の瞬間であることか、と思う。
 それに、言っては何だが、日本の劇場の狭いオーケストラ・ピットでは、量感のあるサウンドはなかなか求め難いだろう。特にワーグナーやR・シュトラウスなどの場合、大編成のオーケストラが轟々と響かせるサウンドの魅力を存分に味わいたければ、ステージでのコンサートを聴くに限る。また、舞台上演の場合には、突発的な制約により音楽の面が犠牲される事態も起こり得るが、演奏会形式上演なら、完璧なアンサンブルも保たれるだろう。
 因みにこれは昔、朝比奈隆氏から直接聞いた話だが、1980年代に氏が演奏会形式でワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲ツィクルスを行なった際、当時バイエルン州立歌劇場の総監督だったヴォルフガンク・サヴァリッシュから「羨ましいですねえ、オケを思う存分たっぷりと鳴らして、しかも細かいところまでちゃんと演奏させて、歌わせて。私も一度でいいからやってみたいですねえ」と言われたそうだ。指揮者やオーケストラも、あるいは歌手の皆さんも、そういう心理になることがあるとみえる。


©︎池上直哉/東京・春・音楽祭2024より《ラ・ボエーム》

 さて、今年の東京・春・音楽祭では、演奏会形式により上演されるオペラが3つもある。それらの中では、さしあたり《パルジファル》などは、演奏会形式で聴くには最も適したものではなかろうか。このワーグナー最晩年の「舞台神聖祝典劇」は、オーケストラ・パートが完璧であり、それ自体がひとつのシンフォニーのような隙のない造型を保っている作品である。それにワーグナーの舞台作品の場合には、特に最近はいろいろ複雑怪奇で凝った演出がなされることが多い(それはそれで面白いのだけれど)ので、それらに気を散らされない演奏会形式で聴くのも一興であろうかと思う。長い静謐な雰囲気の前奏曲と、それに続く深い森の中の場面の音楽に浸り始めた瞬間からもう、とてつもなく巨大な深淵に引き込まれるような快感を与えられはしないか。第1幕の場面転換の個所でのオーケストラと男声合唱の量感たっぷりの迫力、第3幕の同じく場面転換のオーケストラの魔性の凄まじさなどは、演奏会形式であればオーケストラの威力がいっそう堪能できるのではなかろうか。
 プッチーニの《蝶々夫人》も、音楽がしっかりしているので、これも演奏会形式上演で聴いても、その魅力は充分堪能できるだろう。私だったら、プッチーニが日本の民謡や俗謡の断片をどんなに巧妙にオペラの音楽として利用しているかを、視覚的要素にとらわれずに再認識してみたい。蝶々さんが子供をあやす時に「かっぽれ」の旋律が優しく現れ、彼女が自決する凄まじい流血の場面では、陽気なはずの「推量節」の旋律が凄味ある悲劇的な表情に姿を変えて奏されるという、日本人作曲家なら思いもつかぬ音楽の手法が繰り広げられるのが、このオペラなのである。そういうプッチーニの大技が純粋に楽しめるだけでも、演奏会形式上演の良さがある。
 J.シュトラウス2世の《こうもり》は、音楽だけというのはちょっと難しいところがあるかもしれない。セリフが多く、コミカルな芝居もついているオペレッタだから、ある種のセミ・ステージ上演形式的な要素も必要かもしれないが、そのへんはうまくやってもらえるだろう。いずれにせよこれは、ウィンナ・ワルツやポルカを歌入りで(?)聴けるという稀有な機会だ。第1幕、刑務所(実際は舞踏会)に行くアイゼンシュタインを前に、ロザリンデやアデーレも加わって3人3様の思惑が歌われる場面の哀愁と軽快さに富んだ音楽の美しさ。古今のオペレッタの中で、演奏会形式上演に耐えられる力を備えた作品は、この《こうもり》しかない。


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