HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/03/11

ようこそハルサイ〜クラシック音楽入門~
ヨハネス・ブラームス~メランコリーのひそむロマンティシズム

文・後藤菜穂子(音楽ライター)

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ヨハネス・ブラームス(1833-97)

 若きヨハネス・ブラームスの才能を見抜き、彼こそ「新しい道」であると世に知らしめたのは作曲家のローベルト・シューマンでした。その時、ブラームスは弱冠20歳、シューマンは43歳、妻でピアニストのクララは34歳でした。ところが、わずかその数ヶ月後にはシューマンが精神病のために病院に収容されてしまい、ブラームスは急遽残されたクララとその家族を支えることになったのでした。そうした中でブラームスはクララに対して深い思慕を抱くようになり、やがて愛が芽生えますが、その愛は成就することはありませんでした。その後ブラームスは別の女性と婚約指輪を交わしますが、結局うまくいかず、生涯独身を貫きました。こうした報われないメランコリックな想いは、ブラームスの音楽―とくに室内楽曲―の中にしばしば感じ取ることができます。情熱と諦念がブラームスのロマンティシズムを形作っているといえましょう。

 ブラームスはきわめて実直で真面目な性格で、引っ込み思案でもありました。彼は北ドイツのハンブルクの貧しい家庭の出身で、自分の幼少時代については語りたがらなかったと言われます。幸い、その才能は青年時代のピアノの先生をはじめ、シューマン、ヴァイオリニストのヨアヒム、指揮者のフォン・ビューローらの目に止まり、音楽界に認められていきました。のちにブラームスが若きドヴォルジャークの才能を認め、出版社を紹介するなど支援を惜しまなかったのも、自分を援助してくれた人々への恩返しの気持ちもあったのでしょう。

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ブラームスと知り合った頃の
クララ・シューマン

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J.シュトラウスとブラームス

 30歳のとき、ブラームスはウィーン・ジングアカデミー合唱団の指揮者として招かれ、ウィーンに移りました。クララから距離を置く意味もあったでしょうが、やがてこの音楽の都の生活にすっかり溶け込み、以後ウィーンに居を定めました。北ドイツ人の勤勉な気質の持ち主であったブラームスは、作曲活動のかたわら、指揮者およびピアニストとしてヨーロッパ中で演奏を行い、さらには楽譜の校訂者としても驚くほど多くの仕事をこなしました。その一方で、自然をこよなく愛し、毎年夏は都会の喧騒を離れて、ドイツやオーストリアの保養地にこもって、交響曲などの大規模な作品に取り組みました。また室内楽でも、ヴァイオリン・ソナタ第3番(1888年)(speaker.gif[試聴])はスイスのトゥーン湖畔で、弦楽五重奏曲第2番(1890年)(speaker.gif[試聴])はオーストリアのバート・イシュルで作曲されました。

 晩年の写真ではブラームスはいつもいかめしい顔をしていますが、実はヨハン・シュトラウスの音楽が大好きで、二人は親交を結びました。ある時シュトラウスの義理の娘から扇にサインを求められたブラームスは、「美しく青きドナウ」の数小節を書き、その下に「残念ながらヨハネス・ブラームスの作品にあらず」と書き添えた、というユーモアに富んだエピソードも残っています。このように北ドイツの厳格な書法がウィーンの優雅な空気に触れて、ブラームスの傑作の森が生み出されたといえるでしょう。


~関連公演~
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