HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/12/29

連載《ワルキューレ》講座
~《ワルキューレ》、そして『リング』をもっと楽しむために vol.1

音楽ジャーナリスト、宮嶋極氏による恒例のオペラ鑑賞講座。今年度は、ワーグナーの『ニーベルングの指環』(通称『リング』)の第1日《ワルキューレ》をより深く、わかりやすく紹介していきます。連載初回は、作品の概要を整理した上で、《ワルキューレ》の物語が始まるまでを解説します。

文・宮嶋 極(音楽ジャーナリスト、スポーツニッポン新聞社 マルチメディア事業本部長)

 リヒャルト・ワーグナーのオペラや楽劇を毎年1作ずつ、演奏会形式で上演していく「東京春祭ワーグナー・シリーズ」で2014年からスタートした『ニーベルングの指環(リング)』ツィクルス上演、来たる2015年は《ワルキューレ(ヴァルキューレ)》が登場します。演奏は14年の《ラインの黄金》で高い評価を得たマレク・ヤノフスキ指揮、NHK交響楽団が引き続き担当。ワーグナー作品の解釈に定評があるヤノフスキは2016年のバイロイト音楽祭で『リング』を指揮することが決まっていることに加えて、世界のひのき舞台で活躍する実力派のワーグナー歌手が集結する「東京春祭」のステージには世界的な注目が集まりそうです。

 このステージをより深く楽しんでいただくために、本稿では物語と音楽を同時並行的に追いながら、ワーグナーがそこに込めたメッセージについて考えていきます。テキストに記された言葉、譜面の中の旋律に込められた多種多様な意味合いを分かりやすく紐解いていくことで、一人でも多くの方に《ワルキューレ》の魅力を理解していただけるよう、これまで筆者が取材した指揮者や演出家らの話なども参考にしながら、4回に亘って進めていきます。なお、台本の日本語訳については、日本ワーグナー協会監修 三光長治/高辻知義/三宅幸夫/山崎太郎 翻訳「ワーグナー 舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』 第1日 ヴァルキューレ」(白水社)を、譜面はドーバー社刊のフル・スコアとショット社版のピアノ&ボーカル・スコアを参照しました。

《ワルキューレ》概説

 ワーグナーは生前、『ニーベルングの指環』について4部作のツィクルス上演を原則としていたものの、「《ジークフリート》は最も人気を博すだろうから、単独上演されることも止むを得ない」との趣旨のことを語っていたとされる。しかし、現代において4部作の中で単独上演される機会が多いのは、ご存知の通り《ワルキューレ》である。オーケストラ・コンサートで第1幕のみが演奏会形式で取り上げられることも多い。

 また、ベトナム戦争の悲惨さを描いたフランシス・コッポラ監督の名作映画『地獄の黙示録』では、米軍ヘリが地上のベトコンに対して機銃掃射を行う際、兵士の士気を高めるなどの目的のため大音量で流す音楽(BGMではなく劇中音楽)として第3幕への前奏曲、いわゆる「ワルキューレの騎行」(譜例①)が使われている。この曲はCMなどで使用されることも多く、ワーグナーに興味のない人にもよく知られた印象的な名曲である。

譜例①

 序夜《ラインの黄金》の大詰めで、ヴォータンを始めとする神々が完成したばかりのヴァルハラ城に入場。大編成のオーケストラのトゥッティ(全奏)(譜例②)による華やかな幕切れから、《ワルキューレ》では場面設定、登場人物、音楽、そして舞台全体の雰囲気まで一変する。嵐の森を疾走するジークムントの様子を描いた低弦楽器がうねるように活躍する前奏(譜例③)に続いて幕が上がると、演出付きの舞台上演の場合(台本の設定に従えば)、フンディングの館の薄暗い内部になっている。

譜例②

譜例③

 この大胆な転換は多種多様の舞台パフォーマンス、表現メディアが混在している21世紀においてもハッとさせられるものがあるのだから、145年前の初演時の観客・聴衆が驚いたであろうことは想像に難くない。

 『ニーベルングの指環』は4部作を貫くテーマが厳然と存在し、共通のライトモティーフ(示導動機)が全編に亘って使用されるなど、作品ごとに強い関連性を持ち合わせている。その一方で、4作それぞれに独自の個性を有し、単独で上演してもストーリー、音楽の両面でちゃんと完結するところが、ワーグナーの作劇・作曲手腕の見事さであることは言うまでもない。

 聴きどころ、観どころ満載の《ワルキューレ》であるが、まずは3幕11場、上演に約3時間40分を要するこの大作の全体像を見ていきたい。なお、『ニーベルングの指環』の総論やライトモティーフなどに関しては、2014年の連載《ラインの黄金》の第1回で詳述しているので、バックナンバーをクリックしてご参照いただきたい。但し、譜例の整理番号については《ワルキューレ》連載では新たに①からスタートする形にしており、《ラインの黄金》で既出の動機であっても本稿では改めて整理番号を付けている。

創作の経緯

 ワーグナー自身が「3日と、ひと晩の序夜のための舞台祝典劇」と位置付けた『ニーベルングの指環』は、プロローグと3つの楽劇からなる巨大な舞台作品である。プロローグにあたる序夜が《ラインの黄金》、続く第1夜が《ワルキューレ》、第2夜が《ジークフリート》、そして第3夜の《神々の黄昏》で完結する構成となっている。作曲はもちろん、台本もワーグナー自身が執筆。1848年から1852年にかけて《神々の黄昏(原題・ジークフリートの死)》→《ジークフリート(同・若き日のジークフリート)》→《ワルキューレ》→《ラインの黄金》の順で書かれ、音楽は台本がほぼ完成した後、1854年から1874年までの間に《ラインの黄金》から逆の順番で作られた。

 《ワルキューレ》の台本については1851年の秋以降に散文スケッチの執筆が開始され、1852年6月から7月までの間に完成させている。一方、音楽は台本完成と前後する52年夏ごろからスケッチが始まり、54年6月末からその年の12月末までに草案を練り上げ、56年3月23日までにスコアの清書を終えている。

 初演は《ラインの黄金》と同じく、ワーグナーの後援者であったバイエルン国王ルートヴィヒⅡ世が全作の完成を待ち切れず、ワーグナーの反対を押し切って1870年6月26日にミュンヘンの宮廷歌劇場で単独上演させた。4部作ツィクルスでの《ワルキューレ》初演は1876年8月14日、バイロイト祝祭劇場でワーグナー自身の演出、ハンス・リヒターの指揮によって行われた。この時、《ラインの黄金》は前日の13日、《ジークフリート》は16日、《神々の黄昏》は17日に上演された。これが今に続くバイロイト音楽祭(バイロイト祝祭)の第1回である。

☆作品データ
作曲:
1856年
台本:
1852年、作曲家自身の手によるドイツ語のオリジナル台本
初演:
1870年6月26日、ミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場。指揮はフランツ・ヴュルナー
設定:
神話時代。地上のフンディングの館(第1幕)、荒涼たる岩山(第2幕)、岩山の頂上(第3幕)

物語の特徴と登場人物

2013年に新制作された、バイロイトにおける《ワルキューレ》の舞台。演出はフランク・カストロフ。設定は、旧ソ連・アゼルバイジャンのバクー油田に移し替えられている。

© Bayreuther Festspiele / Enrico Nawrath

 ラインの黄金で作られた、世界を支配する力を持つ指環(ニーベルングの指環)を手に入れることが出来なかった神々の長ヴォータンは、世代を超えてこの指環の奪還を目論んでいる。さらに指環には、これを作ったニーベルング族のアルベリヒによる「指環の所有者に死を!」との呪いもかけられている。この2つの大前提の上に、前半ではジークムントとジークリンデによる兄妹の愛、それが(女性週刊誌風の表現を使えば)衝撃的な略奪愛による近親相姦に発展していく。後半ではヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛情がドラマティックに描かれており、観客・聴衆にとっていかにも音楽劇らしい面白い展開が続く。

 《ラインの黄金》から続けて登場するのは、ヴォータンとその正妻で結婚の神であるフリッカのみ。火を司る半神半人のローゲは名前とライトモティーフだけが第3幕で現れるものの、前作幕切れで自身が〝予告〟した通り、現実の姿を目にすることはない。そのライトモティーフもローゲ自身というよりは、火そのものを表わす役割へと変化していく。

 新たに登場するのはヴォータンが指環奪還の欲望を実現させ、自己救済を図るための〝実行部隊〟としての役割を担わせようと人間との間に成したヴェルズング族の双子の兄妹、ジークムントとジークリンデ。そしてジークリンデの夫であるフンディング。この3人は《ワルキューレ》のみに登場するキャラクターである。

 さらにタイトルロールともいえるのがブリュンヒルデと8人のワルキューレ(ヴァルキューレ)たちである。彼女たちはヴォータンが智の神エルダとの間にもうけた娘で、天空を自由に駆け回る馬に跨り、戦場で倒れた戦士の中から勇者を選び、天上のヴァルハラ城に運んで、再び生命を与えて神々の世界の防衛に当たらせる、という任務を遂行している。第3幕の前奏「ワルキューレの騎行」は、この場面を描いた音楽である。

☆登場人物
ジークムント
ヴォータンと人間の女性の間に生まれたヴェルズング族の若者
ジークリンデ
ジークムントの双子の妹。フンディングの妻
フンディング
ジークムントらの敵の一族の男
ヴォータン
神々の長。ニーベルングの黄金で作った指環奪回のため策を巡らす
フリッカ
ヴォータンの正妻。結婚の女神
ブリュンヒルデ
ヴォータンと智の女神エルダとの間に生まれた娘。ワルキューレたちの長女的存在
8人の
ワルキューレたち
ヘルムヴィーゲ、ゲルヒルデ、オルトリンデ、ヴァルトラウテ、ジークルーネ、ロスヴァイセ、グリムゲルデ、シュヴェルトライテ

バイロイト市旧市街にあるワーグナーの居宅ヴァンフリート館と庭にあるワーグナー夫妻の墓。

(筆者撮影)

特殊な構造を持つバイロイト祝祭劇場(外観)。

(筆者撮影)

音楽の特徴

 《ラインの黄金》でワーグナーは、それ以前の作品よりも大きな編成のオーケストラを使用して、数多くのライトモティーフを縦横に組み合わせながら重構造の壮大な音楽を書いているが、《ワルキューレ》では、その手法に一層の磨きがかかっている。歌手が歌うメロディーとオーケストラの旋律が対位法的に絡み合いながら、物語を進めていくだけではなく、登場人物の心理や実際に登場していない人やその状態までも立体的に表現されていく。和声の解決が行われないまま半音階進行で転調を繰り返し、音楽が連綿と続いていく「無限旋律」の色彩も一層強まっている半面、調性感は依然明確であり、随所に口ずさめる名旋律が現れる。このように深みと分かりやすさが同居している点も、《ワルキューレ》が多くの人に親しまれる所以といえよう。

 大編成のオーケストラについては、管楽器は基本4管で、ハープは6本、弦楽器の数も総勢64人と指定されている。初演当時はヨーロッパのあらゆる歌劇場において、指定通りの編成のオーケストラを収容できるピットを備えた劇場はなく、それを解決するためにも『リング』初演にあたりワーグナーはバイロイトに祝祭劇場を新たに設計・建設する必要があったわけだ。

 ちなみにバイロイト祝祭劇場は、オーケストラ・ピットがステージの下に階段状に潜り込むように設えられ、ステージとの間にはシェルターが被せられているため、客席からはオーケストラはもちろん、指揮者すら見ることは出来ない。客席から見えないので、オーケストラのメンバーは本番であっても燕尾服などの正装はせずにポロシャツや暑い日は半ズボン姿で演奏している。指揮者も終演後、カーテンコールの時だけ正装して舞台に登場する。

 ピットの中は最上段上手に第1ヴァイオリン(通常のコンサートの配置とは逆)、下手に第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと段が下がっていく。コントラバスは4人ずつ上・下手に分かれて並べられる。弦楽器の下に木管、さらにその下が金管、最下段にはティンパニ&打楽器が並ぶ。

 ピットから立ち上るオーケストラの音はいったんシェルターに跳ね返され、ステージ上の歌手の声とブレンドされて観客・聴衆に届く。このため大音量でオーケストラが鳴っても歌手の声がかき消されることがない上に、大人数で奏でる厚みのあるサウンドのイメージは決して損なわれないという、絶妙の音響効果を生み出すことに繋がっている。現代のようにハイテク計器やコンピューターを使ってホールの音響設計をすることが出来なかった19世紀に、こんな奇跡のようなアコースティックを持つ劇場を設計・建設させたワーグナーのもうひとつの才能には、この劇場を何度訪れても驚かされるのは筆者だけではないだろう。起伏に富んだ展開が繰り返される『リング』の上演において、この劇場の特殊なアコースティックは絶大な効果を発揮し、上演を盛り上げるのである。

☆オーケストラ楽器編成
フルート4(2本はピッコロ持ち替え)、オーボエ4(1本はコールアングレ持ち替え)、クラリネット4(1本はバス・クラリネット持ち替え)、ファゴット3、ホルン8(4本はワーグナー・テューバ持ち替え)、トランペット3(1本はバス・トランペット持ち替え)、バス・トランペット1、トロンボーン4(1本はバス・トロンボーン)、テューバ1、ティンパニ2、スネア・ドラム1、シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、ハープ6、弦5部(16・16・12・12・8)

 次回は第1幕を詳しく紐解いていきます。


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