HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2016/01/26

「合唱」が語るヨーロッパ史
第8回:20世紀 その1

クラシック音楽の根幹をなす「合唱」作品の歩みを振り返る本連載。第8回では、20世紀に入り、合唱音楽が徐々に政治色を帯びていく過程を振り返る。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学大学院都市イノベーション学府教授)

第一次世界大戦とロシア革命

 1917年、世界中を震撼させる出来事がロシアで相次いで起きた。二月革命と十月革命、いわゆる「ロシア革命」だ。

 ロシア皇帝をはじめとする貴族、あるいは19世紀から20世紀にかけて彼らを経済的にも政治的にも支援し、権力者の側に立つようになった市民を相手に、労働者たちが蜂起した。そしてついには、ウラジーミル・レーニン(1870-1924)を中心的指導者として、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ソビエト連邦共和国・・・以下「ソ連」と略・・・の前身)が誕生する。

 19世紀を通じて、ヨーロッパ各地では何度か革命が起きていたが、ロシア革命は1789年に勃発したフランス革命以来の決定的な大革命だったといえよう。しかも、フランス革命が市民階級を中心としたものであったのに対し、ロシア革命は当の市民階級に搾取され、劣悪な環境で暮らすことを余儀なくされていた労働者階級によるものだった。

 さらにロシア革命の場合、未曾有の大戦争の中で起こったことも見逃せない。その戦争とは第一次世界大戦。1914年に勃発し、1918年に収束するまでの4年あまり、それまで1世紀近くに渡って・・・多少の小競り合いがあったとはいえ・・・一応のところ平和が保たれていたヨーロッパは泥沼の戦争状態に陥り、ついにはヨーロッパが手を広げていた植民地までをも巻き込んで、人類史上初の世界大戦と化した。

 結局のところ、戦争が終わってみれば、戦勝国・敗戦国を問わず、ヨーロッパでは多数の戦死者が出、経済的にも大きな疲弊の時がやってくる。そして、近代ヨーロッパの主役たりえてきた市民階級は、さらにいえば地域によっては辛うじて命脈を保ってきた貴族階級は、没落の一途をたどっていった。

 そこへ追い打ちをかけたのが、ロシア革命に他ならない。それはとりもなおさず、ヨーロッパの主役が、これまで虐げられてきた労働者階級に取って代わられたことを端的に示す一大事件だった。

破壊された調性、崩壊した帝国

 そんなヨーロッパの大変化、あるいは19世紀的市民社会の危機を象徴する合唱曲として、アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)が1915年に作曲に着手したオラトリオ《ヤコブの梯子》が挙げられる。

アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)

 シェーンベルクといえば、ヨーロッパの音楽においてそれまで当然だった調性を破壊し、無調音楽への道を切り開いた作曲家の1人。ただし彼は最初から、無調音楽ばかりを書いていたわけではない。たとえば1900年に着手され、完成までに10年以上の歳月を費やした、声楽とオーケストラの大曲《グレの歌》の場合である。そこでは後期ロマン派の流れを汲んで、調性を果てしなく拡大させる試みがおこなわれているものの、最終的には調性がしっかりと保たれる中、輝かしい響きで全曲の幕が閉じられる。しかもこの曲の最後には、シェーンベルクの先達だったグスタフ・マーラー(1860-1911)の《一千人の交響曲》もかくやという、ギネスブック級の大合唱と大オーケストラが投入されるのだ。

 翻って《ヤコブの梯子》だが、《グレの歌》も真っ青の大編成(合唱も含む)が意図されている点では似ているかもしれない。ただし、そこで聴かれる音楽は、あまりにも異なっている。シェーンベルクの代名詞ともいえる無調をベースに曲は進み、所々に調性らしき部分の残骸が聴き取れるといったところ。しかも、作曲者自身、幾度か完成を試みたものの、この作品は結局未完のままに終わった。

 未完の理由の1つに、第一次世界大戦のあおりをうけて、シェーンベルク自身が徴兵されたことがある。1917年に彼自身は兵役を解かれるものの、翌1918年、ウィーンを都としてきたハプスブルク家の支配する帝国は戦争に敗れる。街では日々のパンを求める労働者たちが蜂起し、それを見た時の皇帝カール1世(1887-1922)は、ロシア皇帝のわだちを踏まぬよう退位を宣言。ここに伝統あるハプスブルク帝国は崩壊し、ウィーンの文化は混迷状態に陥った。

不特定多数の大衆への意識

 いずれにしても、1つの世界が崩壊し、新たな世界が生まれるかどうかという時代だった。そのような最中、地中から熱いマグマが噴出するかのような状況を汲みながらも、はるかな過去に創作のアイディアを求めようとした合唱曲が登場する。カール・オルフ(1895-1982)が1935年から36年にかけて作曲した《カルミナ・ブラーナ》だ。

オルフカール・オルフ(1895-1982)
(Lieselotte Holzmeisterと)

 テキストは、南ドイツの修道院から発見された中世の写本から採られている。そうした点では、過去の作品に題材を得たものなのだが、その内容はといえば、賭博や酒や恋といった、いつの世にも変わらぬ人間の欲望が扱われている。つまりそれらは、急速な時代の変化に晒されていた20世紀前半の世界にあっても、充分な説得力を持つ題材だった。しかも、賭博や酒といったどちらかというと道徳的に後ろめたい性格を具えた内容は、既製の価値観や道徳が大いに揺らいでいたオルフの同時代にあってこそ、真価を発揮したのだった。

 こうした背景があったためか、この曲でも大合唱団と大オーケストラが活躍する。ただし、それらが爆発的なエネルギーを描くために用いられているのが、マーラーやシェーンベルクとは異なるところ。さらに、メロディやリズムは民謡や流行歌のような俗っぽさを常にはらみ、同じメロディで歌詞が何番も繰り返される。

 つまりは、当時の社会で勃興を遂げつつあった労働者に象徴される、不特定多数の大衆の存在が意識されているといってよい。じっさい《カルミナ・ブラーナ》は、現在アマチュアの合唱団やオーケストラによっても、しばしば演奏される。

 こうした内容もあったためだろう。ナチス・ドイツの支配者だったアドルフ・ヒトラー(1889-1945)は、この曲を高く評価した。ドイツの古の伝統を汲んだテキストを用い、かつ多くの人々を惹きつける力を持った作品であって、ヒトラーの政策と見事に一致した、というのがその理由である。

政治に利用される合唱曲

 もちろんオルフ自身は、ヒトラーに協力するつもりで《カルミナ・ブラーナ》を作曲したわけではない。ただし、不安の時代にうごめくエネルギーをたぎらせた曲想が、同じようなエネルギーを政治的に利用したヒトラーの政策と奇しくも一致したということ。

 いや、フランス革命の際に歌われ、有名作曲家の作品にも度々取り入れられた《ラ・マルセイエーズ》の例を持ち出すまでもない。音楽と政治・・・特に合唱曲と政治は、音楽を通じた高揚感や一体感に加え、歌詞が伴っていること、さらにそれを数多くの人が歌ったり聴いたりして共有できることから、密接な結びつきを見せてきた。

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-75)

 たとえば、ヒトラーと並ぶ20世紀の独裁者として名高いヨシフ・スターリン(1878-1953)も、みずからの君臨するソ連の国威高揚と国内団結を狙って、様々な作曲家に合唱曲を書かせた。中でもとりわけ有名なのが、ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-75)の《森の歌》。作曲は1949年で、ナチス・ドイツとの戦いにより荒廃していたヴォルガ河付近の植林プロジェクトを讃えた曲である。

 この作品が生まれたのは、ショスタコーヴィチがスターリンの逆鱗に触れたことがきっかけだった。窮地に立たされたショスタコーヴィチは、スターリンその人をあからさまに讃え、さらに「スターリンお気に入りの音楽様式=ソ連の大衆に分かりやすい曲」を書くことを決意する。結果《森の歌》は大成功を収め、ショスタコーヴィチは失地を回復するものの、その心中はいかばかりだったろう。(大成功を収めた初演の後、彼は楽屋でウォッカを飲んで号泣していたと伝えられている。)

 スターリンの没後、彼に対する批判が巻き起こる中、この曲は1962年に歌詞変更を施された。さらに1991年にソ連が崩壊した後は、1つロシアに限らず世界中を見ても滅多に歌われず、歌われるとすれば往々にして激しい物議を醸す一曲となってしまった。


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