HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2015/11/25

「合唱」が語るヨーロッパ史
第6回:19世紀後半 その1

西洋クラシック音楽の根幹をなす「合唱」の歴史を振り返る本連載。第6回では、19世紀後半、合唱音楽が教会から解き放たれていくなか、1868年に生み出された2つの作品にスポットをあてる。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学大学院都市イノベーション学府教授)

オペラと化した宗教音楽

 1868年、つまり日本において「明治維新」がなされたまさにこの年は、ヨーロッパの合唱音楽史にとっても重要な意味を持つ。そこには、2つの宗教音楽の傑作が関係しているからだ。1つはヨハネス・ブラームス(1833-97)の《ドイツ・レクイエム》、もう1つはジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の《レクイエム》。

ヨハネス・ブラームス(1833-97)

  ブラームスが《ドイツ・レクイエム》に着手したのは1857年頃のこと。ただし、作曲の筆が遅かったことで有名な彼だけのことはあって、結局のところ曲が完成したのは、1868年だった。かたや、ヴェルディが《レクイエム》のもととなる着想を得たのも1868年のこと。同年の11月にジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)が亡くなった出来事をきっかけに、彼を偲ぶためのレクイエムを同郷の作曲家たちと共同製作することをヴェルディは思い立ち、みずからもその終結部「リベラ・メ(我を解き放ち給え)」を書く。ただし様々なトラブルにより、このプロジェクトは頓挫。それから6年ほどの歳月を経た後、すでに書き上がっていた終結部を活かしつつ、ヴェルディが自分自身の筆で新たに全体を書き上げた。それが1874年に完成された《レクイエム》である。

 ちなみにヴェルディの《レクイエム》だが、初演当時から「宗教音楽ではなくてオペラのようだ」という評判が、良きにつけ悪しきにつけついて回った。じっさい曲中に登場する「ラクリモーサ(涙の日)」には、オペラ《ドン・カルロ》が1867年にパリで初演された際、上演時間の関係からカットされた部分が転用されているほど。そうでなくても、オペラの世界で功なり名遂げたヴェルディは、この分野で培ったノウハウをこの作品に惜しみなく注ぎ込んだ。とりわけ合唱パートは、死者に対する哀悼の思いから最後の審判のまがまがしさに至るまでを遺憾なく描き出し、なくてはならない重要な役割を担っている。

教会から劇場へ

 ところで、ヴェルディの《レクイエム》とオペラの関係は、音楽的な面だけにとどまらない。当作品は1874年にミラノのサン・マルコ教会で初演されるが、3日後におこなわれた再演の会場は、ヨーロッパ有数のオペラ・ハウスとして名高いスカラ座だった。

 これはある意味、前代未聞の出来事ではなかったか? 古来宗教音楽は、聖なる場所である教会で演奏されるのが当たり前だった。しかもそれは、ミサ(レクイエムも死者の魂の平安を神に祈るミサの1つである)をはじめとする典礼の一部という位置づけであって、礼拝堂のなかで音楽が演奏される場所も、入口のすぐ上に設けられたバルコニーの上と相場が決まっていた。そしてここに、オーケストラも合唱もさらにはオルガンも配置されるのが当然だったのである。

 いっぽう礼拝堂の正面とは祭壇に他ならず、会衆は典礼の間中、入口上のバルコニーには背を向けざるをえなかった。つまり、教会の主である聖職者が典礼を司ってゆく祭壇が「メイン」、音楽関係者が演奏するバルコニーは「サブ」であるという考え方に他ならない。極端に言ってしまえば、典礼でもっとも重要なのは聖書朗読や説教や祈りであって、音楽はあくまで二の次・・・というか添え物だったということ。

 このように典礼においては常にオマケの地位に甘んじてきたはずの教会音楽だったにもかかわらず、ヴェルディの《レクイエム》においては作品そのものからしてただならぬ存在感を発揮し、それを演奏する音楽家たちも教会の目立たぬ場所ではなく、オペラ・ハウスの舞台で華々しい姿を聴衆に見せつけた。しかもオペラ・ハウスとは元々、聖なる場であり続けてきた教会とはあまりにも対照的な、俗臭ふんぷんたる場である(何しろそこは、オペラを鑑賞すると同時に、場合によってはカジノも備えた絢爛たる社交の場だった)。にもかかわらず、このような場所において典礼を意図した音楽が麗々しく演奏されるとは!

聖所と化したコンサートホール

 実はブラームスの《ドイツ・レクイエム》についても、同じことが言える。この曲の幾つかの楽章が部分初演されたのは、全曲の完成に先立つ1867年のこと。初演をおこなったのは、教会付属のオーケストラや合唱団とはまったく関係のない、ウィーン楽友協会の合唱団と管弦楽団である。しかも会場は、当時楽友協会が演奏会をおこなう時にしばしば使用された、王宮内の舞踏広間=レドゥーテンザールだった。(ヴェルディの《レクイエム》も、初演にあたったのはスカラ座のオーケストラと合唱団だった。)

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)

 つまり、オペラときわめてつながりの深いヴェルディの《レクイエム》でさえ、初演の場所は一応教会だったのとは対照的に、ブラームスのそれは・・・部分初演だったとはいえ・・・「教会」ならぬ、「協会」が密接に関わっていたことになる。ちなみにウィーン楽友協会は1812年の創設。ウィーンの音楽愛好家が集まり、自分たちの聴きたいレパートリーを、オーケストラや合唱団を自主的に結成して演奏することを活動の目的の1つとしていた。つまりは純粋に音楽を楽しむための団体であって、1870年には「黄金のホール」として有名な大ホールを備えた新しい会館をオープンさせるまでの力を持った。

 なお、黄金のホールを含む楽友協会の新会館は、ギリシア神殿のイメージで造られている。19世紀にヨーロッパ社会の中心に進出し始めた市民階級は、日々の競争や闘いのなかで魂を憩わせる場所を求めたのだが、その対象は旧来の権力を振るってきた教会ではなく、音楽に象徴される芸術だった。つまりウィーン楽友協会も聖なる芸術が満ち溢れる場であって、しかもその大ホールには、教会であれば祭壇が作られている正面に、当の教会では目立たぬ場所に押しやられていたオルガンをはじめ、演奏家が楽を奏でるべき場所=舞台が設けられている。

聖なる音楽の俗化、俗なる場の聖化

 ブラームスの《ドイツ・レクイエム》のウィーンにおける部分初演は、年代から見て、もちろんこの楽友協会大ホールでおこなわれたわけではない。だが《ドイツ・レクイエム》の立ち位置を考えるに、教会で演奏されるべき「聖なる」典礼音楽が教会以外の・・・つまりは「俗なる」場所で取り上げられてゆくという潮流、さらにいえば「聖なる」場所がもはや教会ではなく演奏会場にその地位を譲りつつあるという傾向が、そこには顕著に現れているとはいえないだろうか?

 しかも《ドイツ・レクイエム》は一応のところ「レクイエム」と銘打たれているものの、カトリック教会が伝統的に育んできたラテン語のテキスト(ヴェルディの《レクイエム》もこれにもとづいている)ではなく、ブラームス自身が聖書から自由自在に取り出し編集した聖句が歌詞となっている。つまりこれは、典礼音楽の外観を一応のところは保ちつつも、もはや既存の社会の枠組みに縛られることをよしとせず、信仰をはじめとする様々な自由が勝ち取られつつあった市民社会の動きを濃厚に映し出した作品とはいえないだろうか?

 ちなみにウィーン楽友協会の大ホールでは、演奏会用の作品だけではなく、典礼音楽を数多く含む古今の声楽作品が積極的に上演されていった。そしてその際大活躍したのが、先程も触れた楽友協会合唱団。メンバーは全員きわめて高い音楽的能力を具えながらも、音楽を愛するがゆえにあえてそれを生業には選ばなかった市民階級を中心とする愛好家ばかりだった。そして彼らの尽力により、それまでいわば教会の独占物だった典礼音楽は演奏会のレパートリーとなり、また演奏会場は教会にかわる聖なる場所としての地位をいよいよ強固に確立していった。

 聖なる音楽の俗化、あるいは俗なる場の聖化。この両方の動きが重なり合ったところに、19世紀後半の合唱も自由に活動の場を広げつつ、それに参加する者にも聴く者にも魂の浄化を体験させるような演奏が繰り広げられたのである。


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