HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/02/02

「合唱」が語るヨーロッパ史
第1回:中世からルネッサンスまで

今年から東京春祭では、新企画として「合唱の芸術シリーズ」がスタートする。そこで本連載ではこれから数回にわたり、クラシック音楽の根底に脈打つ「人間の声による音楽」すなわち「合唱」の歴史について考えてみたい。案内役は、ヨーロッパ文化史研究家の小宮正安氏にお願いした。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学教育人間科学部准教授)

グレゴリオ聖歌とキリスト教

 ヨーロッパの歴史や文化を語るとき、キリスト教の存在を無視することはできない。とりわけ、音楽の世界においては。

 その典型が「グレゴリオ聖歌」である。中世の初期に当たる8世紀から9世紀頃にかけて中央ヨーロッパで生まれ、以降カトリック教会の典礼や祈りの場で歌い継がれてきた。様々な点で女人禁制のしきたりが強かった教会の音楽であることを反映して(女子修道院などの特殊な例を除き)、男声の独唱ないし合唱によって歌われることが多い。

 だが、現在私たちが考える「合唱曲」のイメージからすると、グレゴリオ聖歌はきわめて異色だ。何しろ、合唱の醍醐味である「ハモる」という場面がまったくない。あくまで単旋律を幾人もの人間が歌うのであって、和音を重ねたり、パートごとの掛け合いを愉しんだりという考えとは、コンセプトがまったく異なっている。

 その代わり、何人もの人々が同じ旋律を歌うことによって生じる、神秘的な共振がある。文字通り、異なる人間が「声を一つに合わせる」世界であって、唯一絶対の神を賛美する教会において、これほどふさわしいものもない。

 ところが、なのである。グレゴリオ聖歌のルーツを、さらにはヨーロッパにおけるキリスト教のルーツを辿ってゆくと、なかなか複雑なのだ。というのも、ヨーロッパに住んでいた土着民族の宗教は、ほとんどの場合、多神教の地霊信仰だった。それを、ユダヤの地から地中海を経てヨーロッパに上陸したキリスト教が、様々な迫害をものともせず覆い尽くしてゆくわけだが、その過程でアメとムチが使い分けられた。

 ムチとはもちろん、多神教を排し、一神教を是が非に広めようというもの。しかもそれを積極的におこなったのは、元々は多神教を信じていたはずの部族の長だった。ヨーロッパ中に群雄割拠する他の部族を制し、強い支配力を手に入れるべく、自らの過去を切り捨て、教会という権力をバックに付けたい......。そう考えた典型が、ゲルマン人の一部族のフランク族の支配者であり、その末裔がカール大帝(742-814)である。彼はヨーロッパ世界の新たな支配者として、神聖ローマ帝国皇帝の称号を教会から与えられると同時に、キリスト教の布教とグレゴリオ聖歌の普及に熱心に力を注いだ。

 いっぽう、古代ローマ帝国の末期には国教になるほどの勢力を誇っていたカトリックも、後ろ盾だった当の帝国が消滅してしまい、途方に暮れていた。そこへ教会の力を頼りに、かつての古代ローマ帝国同様にヨーロッパを平定しようとするフランク族が現れたのである。教会にとっては、願ったりかなったりだった。

 なお、ヨーロッパには「普遍」という考え方が存在する。多様な民族が入り乱れるヨーロッパで、彼らは互いに戦いを繰りかえしつつも、いつ自分の身が危険にさらされるか分からない危険性と隣り合わせになっていた。そこで、価値観や文化の違いを超えて、皆が納得して共有できる緩やかな土俵作りが目指されてゆく。その土俵こそが「普遍」であり、例えば古代ギリシア、古代ローマ、そしてキリスト教がそれだった。

 というわけで、キリスト教はヨーロッパにおける「普遍」的存在の一つとなるのだが、その過程で土着宗教の上書きがおこなわれた。十字架上でキリストが血を流して磔になった姿が過激なまでに強調されるようになったのも、土着信仰に存在していた犠牲の人柱をキリスト教的にアレンジしたため、と言われるほど。同様に、中世の教会音楽の代名詞のように言われるグレゴリオ聖歌も、古代ローマの聖歌やガリア(古代ケルト人が居住していたフランスやベルギーなどの地域)の聖歌といった具合に、その土地々々の聖歌が融合し合った結果、ヨーロッパを席巻するような普遍的音楽と化していった。

ルネッサンス期に登場したマドリガーレ

 だがそこに、地殻変動ともいえる変化が訪れた。14世紀頃から始まったといわれるルネッサンスである。

 雑駁な見取り図を描くと、カトリック教会の力が徐々に衰えてゆくのと引き換えに、「聖なる」教会の支配の下に甘んじていた「世俗」の力が強まり、教会が一元的に全てを支配していた中世では考えられなかったような自由を、個々人が謳歌できる時代が訪れた。ルネッサンスは奇しくも大航海時代と重なっているが、例えばコロンブス(1451-1506)やマゼラン(1480-1521)など、たとえ下級貴族や庶民の出であろうとも自らの知恵と力で人生の道を切り拓き、現在にまで名を残すような人物が次々と現れた。

 そうした中で、合唱にも大きな変化が起こる。教会の中で歌われるグレゴリオ聖歌に代わって、巷の人々が楽しむような歌がクローズアップされるようになったのだ。

 典型的な例が、「マドリガーレ」。これは何人かで集まって歌うための歌曲なのだが、テキストからして恋や愛を歌った「世俗的」なものが数多く用いられた。さらに音楽のつくり方も格段に自由度を増し、個人の多様な価値観が重要とばかりに、複数の人間が様々なパートに分かれて歌うという傾向が強まっていった。

 「個人」の意識に目覚めた人々が集い、ともに声を合わせる。しかもそこでは、均整のとれた音楽の世界を出現させるべく、音楽的な和声=ハーモニーに基づきつつ、文字どおり調和=ハーモニーの世界がつくり出される......。たしかに新たな時代の下で自由を享受し始めた人々は、それぞれが異なる価値観の持ち主だった。しかしだからこそ、その先に彼らが一致して夢みる新時代への普遍的な希望があった。マドリガーレには、そうしたルネッサンスの人々の夢や希望が映し出されていたのである。

 さらにマドリガーレでは、単に他人の歌唱を聴くだけではなく、親しい仲間と集って歌うというスタイルが一般的だった。このあたりにも、多くの人々が積極的に自由を満喫しようとした時代の影響が刻印されている。しかも彼らは、これまたルネッサンスの時代に長足の進歩を遂げた印刷技術の発達のおかげで、かつては考えられなかったほどの速さと量で出版されるようになった楽譜を通じ、マドリガーレに親しんでいった。

 なお補足するならば、中世にも世俗的な歌が存在しないわけではなかった。だが、楽譜に記された歌といえばもっぱらグレゴリオ聖歌であって、それ以外のものはほとんどが忘却の淵に沈んでしまった。逆にいえば、音を楽譜に書き留めるというアイディア自体、ヨーロッパ世界の一大権威として、その栄光を後の世代まで確実に伝えてゆこうとした中世カトリック教会の中から出てきたものに他ならない。それがルネッサンス時代には、教会の手を離れ、社会の新たな担い手となった世俗の人々にも届き始めたのである。

 もちろん楽譜を買ってマドリガーレを楽しもうという人々は、相応の財政的余裕と、時間的なゆとりのある者たちだった。ただしそうした層が、聖職者や王侯貴族といった一部の特権階級だけでなく、都市に住む裕福な商工業者=市民にも広がりつつあった点が興味深い。彼らは個人が覚醒した時代の中で、自らの知恵と力で社会進出を果たし、新たなエリート層として輝かしい生活を手に入れてゆく。フィレンツェやヴェネツィアのように市民が主体となった共和国が生まれ、繁栄を遂げていったのもまさにこの時代のこと。

 そんな市民にとってマドリガーレは、「声」というもっとも身近な楽器を用いて音楽を享受できる恰好のジャンルだった。こうしてマドリガーレを中心に、ルネッサンスの時代には新たな合唱の楽しみが生まれ、そこかしこの巷で花咲いていったのである。


第1回:中世からルネッサンスまで | 第2回:バロック | 第3回:古典派~その1 
第4回:古典派~その2 |  第5回:ベルリオーズ |  第6回:19世紀後半 その1 
第7回:19世紀後半 その2 |  第8回:20世紀 その1 |  第9回:20世紀 その2



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