HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2016/01/05

「合唱」が語るヨーロッパ史
第7回:19世紀後半 その2

西洋クラシック音楽の根幹をなす「合唱」作品の歩みを振り返る本連載。第7回では、後期ロマン派を代表する二人の作曲家「ブルックナーとマーラー」を紹介する。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学大学院都市イノベーション学府教授)

都市大改造の時代

 19世紀中頃から、ヨーロッパの様々な大都市で、ある動きが見られるようになった。何かといえば都市改造。それまでは外敵から身を守るために、あるいは関税をとるために、壁に街の周囲をぐるりと取り囲まれていた。(たとえば中世以来の風景が残るロマンティック街道では、今でもこうした形態の街をそこかしこで目にできる。)

 昔であれば、もちろんそれでよかったのだろう。だが時代はもはや、19世紀である。つまり政治革命や科学革命や産業革命や消費革命の時代であって、そうなると街の周囲に巡らされた壁が無用の長物と化していったのは当然のことだった。

 たしかに、今や大砲を一発放てば、弾は壁を易々と越えて街中に落ちるのは必至だった。あるいは、多くのモノや情報を可能な限り迅速に流すことで社会が潤うという新たな経済システムが浸透してゆく中、市壁に穿たれた門のところで関税を悠長にとっているなどという行為は、もはや意味をなさなかった。人口は増加の一途をたどり、壁を越えて住宅街が外へ外へと広がってゆく中、壁の中の中心街では住宅問題が深刻化していった・・・。

 こうした状況の中、1850年代に入るとパリやウィーンでは無用の長物と化した市壁を壊し、狭く入り組んだ街路を拡張しようという動きが急速に高まってゆく。結果、これらの都市は輝ける近代都市として装いも新たに生まれ変わり、シャンゼリゼ通りやリンク通りといったお馴染みの目抜き通りが姿を現すこととなった。もちろん、単に新しい通りが開通しただけではない、それらに沿って議事堂や省庁といった行政施設、オペラハウスや博物館や大学といった文化施設、さらには公園といった保養施設が建てられた。しかも、こうした公共施設だけではまだまだ土地が余っているため、それらに混じりホテルやマンションといった個人所有の施設も続々と出現した。

新築祝いの祝典曲

 このように、最新の目抜き通りに沿って新たな建築物がお目見えすることとなったパリやウィーンでは、公共施設であれ私的施設であれ、建物が完成した暁には必ずと言ってよいほど完成記念のパーティが催された。そんな宴の場に必要とされたのが、音楽である。しかもそこで演奏された音楽とは、しばしばバックグラウンド・ミュージックという「添え物」の枠を超えて、きわめて「本格的」なものだった。

 結果、当時それなりに名前の知られていた音楽家に作曲依頼がおこなわれ、オーケストラはもとより合唱も付いたきわめて大掛かりな作品が続々と書かれることとなる。いわば、落成を記念して書かれたその場限りの祝典曲であって、こうした作品のほとんどは、・・・作曲家も含めて・・・現在ではすっかり忘れ去られてしまっている。

 ただし、中世以来の市壁という古い衣を脱ぎ捨てた都市の門出を、音楽芸術によって高めようという考え方が存在したことはたしかだろう。それは、新たにお目見えした建築作品、ひいてはその中に飾られた調度品や絵画といった造形芸術と音楽芸術とを融合させ、聖なる高揚感へ人々を誘おうとする総合芸術的な考え方に他ならない。

 となると、そのような場に合唱が用いられるのは、当然ではなかったか? 人の声が織り成す劇的な効果はもとより、市民が社会的な力を持ち始めた19世紀・・・実際、新装なった近代都市で、宮殿と見紛うばかりの巨大なマンションやホテルを建てたのは、彼らの中でも特に大きな成功を収めた人々だった・・・にふさわしく多数の人間が声を合わせる高揚感、さらには宗教音楽の流れを組んだ聖なる雰囲気も重要だった。何しろ古来ヨーロッパにおいて、建物の落成式は「建物の祝福式」と銘打たれ、生まれたばかりの建物に神の祝福があるように、という祈りが込められていたのだから。

交響曲と宗教曲の融合

 ところで19世紀後半にパリやウィーンで活躍した作曲家たちは、こうした都市改造を目の当たりに体験し、その中で自らの創作活動を展開していった。また、だからこそ彼らの中には、中世以来の市壁に囲まれていた街で暮らしていた先達の作曲家以上に、進取の気性に富んだ人びとが数多く生まれることとなった。

アントン・ブルックナー(1824-96)

 たとえば、アントン・ブルックナー(1824-96)である。オーストリアの片田舎に生まれ育った彼は、やがてリンツという地方都市でオルガニストとして活躍するかたわら、この街の男声合唱団のために様々な合唱曲を書いたり、教会で演奏するための合唱ミサ曲を作ったりしていた。そんな彼が、やがてウィーンへ居を移すにあたって本格的に取り組み始めたのが交響曲。しかも彼の場合、交響曲という世俗的なジャンルの中へ、教会に響き渡るオルガンや聖歌を彷彿させる聖なる雰囲気を盛り込み、さらには当時時代の先端を行く作風で知られていたリヒャルト・ワーグナー(1813-83)からの影響も受けていた。

 というわけでブルックナーの交響曲は、その風変わりな作風、さらにその長大な演奏時間のゆえ、毀誉褒貶きよほうへんに晒されてゆく。だが一方でそこには、近代都市に生まれ変わったウィーンを生きた彼の姿勢が現れているともいえるだろう。

 何しろブルックナーは、未完に終わった《交響曲第9番》の最終楽章として、自らが作曲したオーケストラと合唱(さらに独唱)のための宗教曲《テ・デウム》を充てがうことを考えていたほど。一見突飛に見えるアイディアかもしれないが、装いも新たに誕生した目抜き通り沿いに顔を見せた建造物が、オーケストラや合唱によってその誕生を聖別され、祝福された時代の刻印がそこには見て取れる。19世紀市民社会が未曾有の繁栄をとげる中、聖なる場所で演奏されるべき合唱音楽は、世俗的なジャンルとさえも結びついていった。

巨大志向と深さと

 このようなブルックナーの姿勢をさらに拡大する形で受け継いだのが、その後輩格に当たるグスタフ・マーラー(1860-1911)。彼の交響曲にはしばしば合唱をはじめとする声楽が用いられているが、特にその傾向が顕著に見られるのが、1910年に初演された《交響曲第8番》、通称「一千人の交響曲」だ。

グスタフ・マーラー(1860-1911)

 実際その名のとおり、大オーケストラに加えて混声合唱団が二組、さらには児童合唱団までもが加わる特大編成となっており、初演の際には1000人以上の演奏家が参加した。また初演の場所はミュンヘンに新しく作られた博覧会場といった具合に、エクトル・ベルリオーズ(1803-69)ばりの巨大志向がそこには垣間見える。大量生産・大量消費が実現した世界において、社会の勝ち組に伸し上がった市民が、都市改造を機に自ら建てたマンションやホテルの落成式で合唱付きの祝典曲を好んで演奏させたように・・・。

 ただしマーラーの《交響曲第8番》に仔細に耳を傾けるならば、この作品が単なる巨大志向の産物だけではないことはよく分かる。ホールを揺るがすような熱狂的咆哮が聞かれるのは全曲の一部であって、多くの部分は逆に恐ろしい程の静けさに満ちているからだ。そして舞台を埋め尽くした合唱団が、これ以上ないほどの緊張感を持ってその弱音の部分を歌うことによって、この交響曲のテーマである人間の魂の彷徨と救済が、鮮やかに描き出されてゆく。

 ここに、既存の教会ではなく音楽に聖なる場所を求めようとした19世紀市民社会の思いは、究極的な完成を見たといえるだろう。多くの人びとが手を携えることによって新しい社会を実現するという市民社会の理念は、空前の規模の合唱付き作品を生み出すかたわら、単に大掛かりな外観にはとどまらない、広さや深さを与えていった。ヨーロッパの市民社会と合唱作品はともに手を携え、ここに究極の形へと辿り着いた。


第1回:中世からルネッサンスまで | 第2回:バロック | 第3回:古典派~その1 
第4回:古典派~その2 |  第5回:ベルリオーズ |  第6回:19世紀後半 その1 
第7回:19世紀後半 その2 |  第8回:20世紀 その1 |  第9回:20世紀 その2


~関連公演~

春祭ジャーナルINDEXへ戻る

ページの先頭へ戻る